宮清め(2009 小磯良平 ㉗)

2009.8.5(水)12:20-13:00、湘南とつかYMCA “やさしく学ぶ聖書の集い”
「洋画家 小磯良平の聖書のさし絵から聖書を学ぶ」㉗

(明治学院教会牧師、健作さん76歳)

画像は小磯良平画伯「神殿から商人を追い出す」

マタイ21:12-17、マルコ11:15-18、ルカ19:45-46、ヨハネ2:13-16

1.「聖書の挿絵の歴史」という研究書はきっとあるに違いない。寡聞にして知らない。もし、そのような書物を紐解いたら、恐らく予期しないようないろいろな場面が絵になっていることに驚くに違いない。何しろ、聖書にまつわる歴史は長く広いのだから。この「宮清め」の場面もいろいろな画家がテーマにしたであろう。絵になりやすい場面だと思う。だがどんな作品があるのか皆目分からない。

 福音書ではこの物語は4ヶ所でてくる。共観福音書では、この事件はイエスがエルサレムに入城した直後に起こったとされているが、ヨハネ福音書では、逆にイエスの活動の公生涯の冒頭で起こったとされている。聖書学者もどちらが歴史的なのか分からないといっている。

2.イエスの神殿批判はどのようなものであったのか。

 イエスが神殿を中心とする経済の搾取体制に根本的な批判を持っていたことは確かである。

 両替商は神殿への献金をローマの貨幣ではなくシケル貨幣でしか受け付けない神殿体制を意味し、それをよいことに、両替商売が暴利をむさぼっていた。

 鳩は貧しい者の捧げもので、庶民には欠かせない捧げものであった。

 神殿当局は商人からの場所代で利益を上げていたのであろう。イエスは「(神殿は)すべての国民の祈りの家と唱えられるべきだ」(イザヤ56:7)を引用しているが、これは当時ユダヤ教内部でも敬虔主義的な運動に加わっていた者たちの批判でもあった。必ずしもイエスだけの見解ではなかった。ただ、イエスは神殿の捧げものの現場だけではなく、もっと根本的に神殿を頂点とする宗教的社会支配の体制に批判を持っていたのであろう。

 聖書学者・田川建三氏の論述によれば、警備の厳しい神殿内で、イエス一人の行動は、ただちに阻止され、逮捕されたに違いない。

 それを免れて、このような振る舞いが出来たのであろうか、と疑問を投げ掛けている。

 弟子たちは出てこないから計画的ではない。何かのきっかけで実力行使になったのであろう。その突発的事件が伝承としてかなり大きく伝えられたのではないか、と想像されるという。

3.テキストを読み比べて見ると、「イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し」(ヨハネ 2:15)とあるのは、ヨハネだけでる。

 小磯さんの絵はイエスが「縄の鞭」を持っている。きっとヨハネのイメージが記憶に残っていたのであろう。


 だが、追い出された羊や牛は描かれていない。福音書のもろもろのイメージを重ね合わせて描いたのであろう。

 しかし、小磯さんの絵からは、戦闘的イエスというイメージは、出てこない。イエスの表情も何か淡々としている。それに、イエスが持つ鞭は、縄の陰影が描かれていることを考えると、それが暴力を象徴してはいない。本来の鞭は「刑具」であって皮製である。

 テキストの中心には、両替人の台や、鳩を売る者の腰掛けをひっくり返したとある。絵に見られるのは(イエスの右下)台がひっくり返って両替のお金の袋がころげ落ちている場面である。鳩のほうは籠がひっくり返っている(イエスの左下)。鳩は内から逃げてしまったのか。

 光は右上から来ている。大きな柱を遠近に配して神殿の壮大さを上部のアーチで囲まれた空間で想像させ、群像を遠景に描き、慌てる商人を近景に配置するなど、細かい気配りをしている。右柱の下に、水入れの容器(土の器・水甕:画面右下の柱の陰)と商品をいれた籠をおき絵の構図のバランスを取っている。構図を決めた時の下絵の斜めの線はそのまま残し、絵に流動感を与えている。

 何といっても、この喧騒の場面に女性を二人描き(イエスの左の柱の陰)、一人は母子像である。「宮清め」が小磯さんなりの柔らかさを持って描かれていることがこの絵の特徴であろう。

4.笠原芳光氏はその著『イエス逆説の生涯』で、イエスの「宮清め」の事件につき「それまで溜っていた憂鬱と絶望感の噴出であろう。よくも悪くも人間的言動というほかはない。」(p.183)と述べている。

 それはエルサレム入場の折の「ホザナ」(救い給へ)と叫んだ民衆が、一転してイエスに「十字架につけよ」と叫んだという、民衆の非主体的な在り方への絶望を語る一連の文脈で述べられている。

 しかし、私はそうは思わない。

「宮清め」でイエスは冷静であったのではないか。

 ここで「神の使命」という原始教会の「キリスト論」(十字架の必然)的な読みをする訳ではない。人間イエスという観点からも、権力批判の止むに止まれない行動としてあったのではないか。

 当時、観念的に批判をした敬虔主義のユダヤ教の流れに対して、イエスが異なっていた点は、それを「たった独りで」行動に移したことであろう。ここでは官憲に捕まらない機敏さと見通しがあったからこそ、行動にまですすんだのであろう。

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洋画家・小磯良平の聖書のさし絵から聖書を学ぶ

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▶️ 十字架(2009 小磯良平 ㉘)