1987年4月19日、復活日(イースター)、創立記念日、
信仰告白式・幼児洗礼式・転入会式、
午後納骨者記念式(舞子墓園教会納骨堂)
(翌週の神戸教会週報に掲載)
(牧会29年、神戸教会牧師10年、健作さん53歳)
マタイによる福音書 28:16-20、説教題「インマヌエルの信仰」岩井健作
”見よ、わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである。”(マタイによる福音書 28:20、口語訳)
神戸の背山(はいざん)散策路(北野道)を歩く人は多い。
健康な人だけではなくて、リハビリのため、或いは健康を求めている人がその中には多くいる。
宗教的事柄に置き換えれば、親鸞の「悪人正機説」や聖書の「放蕩息子が兄にまさって父の愛を知る」譬え話のようなものである。
病気を媒介にして健康を知り、罪や過ちを媒介にして救いに達する。
そこに至る過程は大事である。
信仰生活においても、「主は愛するものを訓練し」(ヘブル人への手紙 12:5)といって、隠された根源的なものを体得する過程を尊んでいる。
さて、イエスの復活についての信仰を深く知ることについて、福音書は二通りに分かれる。
復活信仰の真理を知る過程を重んじたのは、マルコである。
マルコ16章6〜7節では、「イエスはあなたがたより先にガリラヤへ行かれる」といって、ガリラヤでのイエスの日常活動が過去のことではなく、命(いのち)を与える現在であり、真の出会いのあることが告げられている。
ガリラヤでのイエスの振る舞いを抜きにしては復活は体得されない、という《体得契機》の重視がマルコである。
これと全く逆の説き方をするのが、マタイである。
マタイは1章23節で、イエスの誕生について「『その名はインマヌエルと呼ばれるであろう』これは『神われらと共にいます』という意味である」といっている。
イエスの存在は《神が共にいる》という根源的事実なのである。
体得の過程よりもこの根源が大事だという主張である。
マタイ福音書は「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいるのである」という言葉で終わる。
”あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」。”(マタイによる福音書 28:20、口語訳)
始めも終わりも、同じことを告げている。
体得の重視よりも、マタイは根源から出ての働きを重んじる。
「いっさいのことを守るように教えよ」(マタイ 28:20a)との宣教命令である。
先の例でいえば、山歩きをする人も健康そのものが目的ではなく、健康になって家庭や仕事や社会でよき生を営むことが目的である。
マタイは、宣教の内容を25章31〜46節で、助けを必要とする人への援助の働きとして具体的に示している。
とすると、復活信仰の内実としての「インマヌエル、神共にいます」は、電気の存在みたいなもので、目に見えないで存在するだけでは意味がなく、電流として流れて働きをしてこそ、活きた力となる。
113年前、神戸教会(摂津第一公会)創立の1874(明治7)年4月19日に、宣教師J.D.デーヴィスは「この日から愛が新しい意味をもった」と語ったという(この日、牧師グリーンによる受洗者11名)。
インマヌエル(神共にいます)の信仰は、静止的ではない、歴史の中で体得される局面を重んじ、根源に至り、そしてまた歴史の中で生きるというサイクルをもつ信仰である。
私たちも、必ずこの信仰のサイクルの中で活かされている。
そのことを覚えて感謝したい。
(1987年4月19日 説教要旨 岩井健作)
1987年 説教・週報・等々
(神戸教会9〜10年目)