1987年5月3日、復活節第3主日、憲法記念日《憲法施行から40年》
(翌週の神戸教会週報に掲載)
(牧会29年、神戸教会牧師10年、健作さん53歳)
マタイによる福音書 5:9、マタイ 10:34-39、説教題「平和憲法の40年と聖書の信仰」岩井健作
”平和をつくり出す人たちは、さいわいである、彼らは神を見るであろう。”(マタイによる福音書 5:9、口語訳)
5月3日、日本国憲法が施行されて40年目を迎えた。
主権在民、平和主義、基本的人権、政教分離等々の精神がそれなりに緩やかに定着していると見る人もいる。
が、また文言改憲こそされなかったが、解釈改憲は功を奏し、憲法精神の空洞化、形骸化も甚だしいと見る人もいる。
人は、自分が生活している場から、ものを見、また考えるから、両者共に理はある。
だとすれば、厳然と存在する被差別部落・在日朝鮮人差別、障害者差別、沖縄の軍用地収用、靖国神社公式参拝、等々の問題を身に負っている者から見れば、憲法は密度の薄い精神であろう。
しかし、強大な国家の権力との関わりで、人間が共存していくための契約としての法が、このように定着するには、人類の重い歴史がある。
この点で、特に「平和」を柱とした憲法は「聖書の信仰」と深い関わりを持つ。
聖書の「平和」(ヘブル語の”シャローム”)が「秩序」や「心の静穏」ではなく、「神による正義や繁栄の実現」という行動的意味を持っていることは、よく知られている。
悪くすると、中世の十字軍のように「神の正義」を建前として取り込んで、相手を支配することになるが、多くの場合、この世の不義に対して、苦しみを負いながらも「神の正義の実現」の希望に生きることを意味している。
イザヤ、エレミヤなどの預言者もそうであった。
マタイの「平和を作り出すもの」もその系譜にある。
そこには、安易に他のもの(国家の力を含めて)を頼らないで、独りで歩み、辛さを背負い込んでいく生き方がある。
イエスの十字架はそのことの極限であり、そこに「神共に在まし給う」ことを信じるのが、「聖書の信仰」である。
「聖書の信仰」を深めることで、平和憲法の精神を生き続ける者でありたい。
(1987年5月3日 説教要旨 岩井健作)
憲法記念日に西田和四郎兄を思う
故西田和四郎さん(城西教会員、1986.10.9没、享年80、森田金蔵氏四男、神戸教会にて19歳の時、米沢尚三牧師より受洗、森田千秋兄の令兄)は、1941年9月12日、当時属していた、耶蘇基督之新約教会の38名の一人として、「天皇を敬わない」とのことで、治安維持法で検挙された(「城西」 1986.12.21号)。
若い日の西田さんの文章(「神戸教会月報」1930.5.15号)には、信仰の純粋さが滲んでいる。
「おもえばむかしイエスきみ……」(467)が愛唱賛美歌だった。
城西教会の徳永牧師は、追悼文で同氏の戦後持ち続けれられた信仰の内省の深さを伝えている。
西田さんの「天皇制」との関わりにおける内なる苦悩を継承することを怠ってはならない、との思いを強くする。
(憲法記念日に寄せて 岩井健作)
1987年 説教・週報・等々
(神戸教会9〜10年目)