1987年5月17日、復活節第5主日
(翌々週の神戸教会週報に掲載)
(牧会29年、神戸教会牧師10年、健作さん53歳)
マタイによる福音書 6:19-24、説教題「澄んだ目」岩井健作
”目はからだのあかりである。だから、あなたの目が澄んでおれば、全身も明るいだろう。”(マタイによる福音書 6:22、口語訳)
「聞く人は信仰の人」と矢内原伊作氏は『顔について』(みすず書房 1986)という随筆の中の「耳」の部分で書いている。
臨終が近くなっても、耳は最後まで機能していると医者も言っているが、聞くことは信仰の究極のあり方を象徴しているようである。
自分本位が砕かれ、神との関係、人間との関係が、生きたものとされるのも、聞くことに始まり、聞くことに終わると言える。
矢内原氏は「眼」のところで「見ることは自己を形成することである」という。
マタイ福音書の筆者が、目のありように譬えて語ろうとしていることも、自分の教会の自己形成の問題ではなかったか、と思う。
マタイ6章は、イエスの言葉の伝承断片を集大成して、5〜7章の「山上の説教」の中に位置づけたものである。
この章のキーワードは、22節の「澄んでいる」という言葉だと福音書研究者はいう。
「澄んでいる」とは「分裂しない一つの心」を意味し、当時のユダヤ教では宗教的人間の模範的特徴を示す重要概念であった。
それは、申命記6章4〜5節の「心をつくし、精神をつくし、力をつくして神を愛せよ」に基づく精神である。
”イスラエルよ聞け、われわれの神、主は唯一の主である。あなたは心をつくし、精神をつくし、力をつくして、あなたの神、主を愛さなければならない。”(申命記 6:4-5、口語訳)
この精神は、ユダヤ教では「施し」「祈り」「断食」で表明された。
「澄んで」いるべきそれらの行為が、偽善に傾いていることへの批判が、この6章には語られている。
例えば、富と神とを適当に使い分ける二元論に対して、マタイは《神の義》に生き切る生き方をもって、ユダヤ教徒同じく教会の中にも巣食う偽善を批判したと思われる。
マタイは《神の義・神の恵み》に生き切ることから始まる《自己形成の問題》を、「目」のありように譬えて言っているのである。
柏木哲夫医師は、河合隼雄氏との対談『現代人の不安 – 死の受容』の中で、死に臨み、信仰をしっかり抱いている人、生半可な信仰の人、無信仰の人の三つのタイプのうち、生半可な人の不安が最も大きいということを言っている。
また『日本人へのラブコール – 指紋押捺拒否者の証言』(在日大韓基督教会指紋拒否実行委員会、明石書店 1986)の中で、指紋押捺を拒否して自らの主体的あり方を確立し、さらに日本人自身の主体性を促している李さんの生き方には、目の迷いは見られない。
耳で聞かざるを得ない信仰は究極の問題であるが、目を用いることの出来るうちの信仰や主体的な生き方の形成は、日常のこととして大事なのである。
後になって信じればよいのではなく、今を決断や自己の方向づけの時として、踏み切ることへの招きをこの言葉に聞きたい。
(1987年5月17日 説教要旨 岩井健作)
1987年 説教・週報・等々
(神戸教会9〜10年目)