2009.4.12、明治学院教会(151)イースター
(単立明治学院教会牧師 5年目、健作さん75歳)
ヨハネ 20:1-18
1.新約聖書のイエスの復活物語には「空虚な墓の物語」(マルコ)と「復活したイエスとの出会いの物語」(ルカ)がある。
ヨハネの復活物語は、この二つが並列している(ヨハネ 20:1-10、11-18節)。
自分なりの過去のイエス理解(しがみつき)が砕かれ、新しい出会いや関係へと導かれる物語である。
2.「空虚な墓」で二人の弟子は、イエスの遺体の不在を確認するが、その出来事の意味を悟らない(9節)。
マグダラのマリアはイエスへの思慕、思い入れ、親愛の情のゆえに、途方に暮れて泣き崩れる。
マリアは「わたしの主が取り去られました。どこに置かれているのか、わたしにはわかりません」(13節)という。
「わたしの主」とは主観的過去像のイエス。戸惑いの表現。
「だれを捜しているのか」(15節)の声。彼女は「あの方を(気持ち、認識、理解で抱いている)」という。
彼女の位置から「運び去られた」、その方を「引き取りにいく」(15節)という。自分が中心にいる。
復活とは自分とイエスの位置関係の変わること。
「マリアよ」(16節)という声は、全く違った方から聞こえてくる。「振り向くとそこにイエスが」(16節)という位置関係。
マリアはイエスにすがりつこうとする。「すがりつくのはよしなさい」(17節)とイエス。
3.知らない間に思い込んでしまっている在り方から、解き放たれる出会いが、復活のイエスに声をかけられること。
ヨハネの時代に、すでにイエスの復活について固定観念的理解があった。それに対して、ヨハネは復活理解への鋭い批判をした。「振り向いて応える関係へ」。自分は「こうだ」との思い込みを手放す時、イエスはそこに居まし給う。これを大事にしてゆきたい。
4.キリスト教作家の椎名麟三の戯曲『天国への遠征』は、人間の陥りやすい生き方をユーモアと鋭い風刺で描いている作品である。
舞台は枯れ木が2本と石の山があるだけ。一人の老人がボロを纏い何万年も待ち続ける。「悪魔」だとも呼ばれている。そこに三人の人物が次々と登場する。この人たちは一度死んで、それから旅をしている人たち。みんな自分の身体より大きな石を背負っている。老人は、その石は自分が貸したものだから返してくれと頼む。けれど、置いて行かない。若い男は「これは自分が純粋であることの証明だから、手放すことはできない」。次の女も「これは、わたしの誇りで、男を愛している、愛の象徴だ」。中年女は「わたしの信仰の印だ、存在証明だ」という。観客にはそれは単なる石でしかない。
紆余曲折の末、三人はそれぞれ石を捨てることになる。老人は「どうやらあの方々、この死の国からの出口を見つけられたらしい」。大変寓意的なお話。
5.私たちはふと気がつくと石を背負っている。
あのこと、このこと、自分の思い込みで背負い込んでしまっている。いろいろな不安がある。
その観念へのしがみつきの彼方(かなた)をイエスは行かれる。
復活のイエスに支えられ、また一歩を踏み出したい。
151_20090412
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