2009.4.8(水)12:20-13:00、湘南とつかYMCA “やさしく学ぶ聖書の集い”
「洋画家 小磯良平の聖書のさし絵から聖書を学ぶ」⑲
(明治学院教会牧師、健作さん75歳、『聖書の風景 − 小磯良平の聖書挿絵』出版10年前)
画像は小磯良平画伯「イエス、洗礼を受ける」
(サイト記)配布資料と集会当日の”声”を反映したバージョンを収録
マタイ3:13-17、マルコ1:9-11、ルカ3:21-22
1.「小磯良平さんの聖書の挿絵からの学び」は新約聖書に入って4回目です。テキストを読み、絵をみて思ったことを出し合って、話の導入にしたいと思います。
2.今日のところにテキストが3つあります。マルコがもともとあってマタイ・ルカがそれぞれに自分に合わせて話を変えています。
3.さし絵聖書の初版ではこの絵はマルコの箇所に挿入されています。2008年版では「イエスの生涯」の事柄の順序にまとめられています。洗礼の記事はマルコ・ルカは簡潔で、マタイはヨハネがイエスの洗礼を思いとどまらせようとする記事が載っていて長くなっています。
4.「洗礼」(新共同訳「用語解説」)
元来「水に浸す」という意味。ユダヤ教の一部では宗教的な清めの儀式として、身を水に浸すことが行われていた。キリスト教では、罪からの清めとキリストと一致する新しい生活に入るしるしとなり、教会の重要な聖礼典となった。
5.「洗礼者ヨハネ」
祭司ザカリヤと妻エリザベツの間に生まれた子。イエスとは親戚、6か月年長。紀元26年(ルカ3:1)ユダの荒れ野またヨルダン川河畔で宣教活動を始めた。宣教の内容は、メシヤ王国の到来と悔い改めのしるしとしての一回的洗礼であった。彼は、当時荒れ野で共同生活を営み、律法に忠実に従ったエッセネ派の影響を受けているといわれた。
6.「イエスの洗礼」についての見解
大貫隆:
「彼(ヨハネ)の授けた洗礼は、繰り返された沐浴と異なり、一回限りのものであった。それは来るべき根源的な審判を生き延びるために今直ちになすべき「回心」と不可分に結び付きながら、「罪の赦し」を与えるものであった(マルコ 1:4)。ここで「罪」は宗教的儀礼の次元から、人間の意志の在り方に深化していることに注意が必要である。そこにヨハネの洗礼の新しさがある。イエスもそれに共鳴するものであったのであろう、ヨハネのもとへ参じて洗礼を受けた。」(『イエスという経験』岩波書店 2003、p.34)。
笠原芳光:
「古来、ブッダやムハンマドをはじめ、法然、親鸞、道元ら父や母を失ったため、発心をしたり、出家したりした例は多く、イエスは恐らく、父親の死によって受洗を決心したのではないでしょうか。」(『福音と世界』2009/4月号、p.66)
(サイト記)以下が集会後に整理された”感想”部分。
1.今日は、イエスがバプテスマを受ける場面です。如何ですか。
「なぜ、洗礼にバプテスマのルビが付いているのですか」
「逆の質問なのですが、洗礼というとどんなイメージを持たれますか」
「受洗者の頭に牧師が手で水を掬って注ぐということでしょうか」
「いや、そうじゃーないんだ。私なんかは、重りの付いた着物を着て、川で頭までざぶんと浸かったんだ。完全に息が止まると思うくらいだった。セブンズデー・アドベンチスト教会でした。」
「そうですね、そのようなやり方を、水を頭に注ぐ[滴礼]と区別して[浸礼]といっています。洗礼に浸礼の意味も含めるためにバプテスマ(浸礼)のルビを翻訳の時つけたと聞いています。」
「つまり、教会の伝統によって二通りあるということですね」
2.「イエスの洗礼はどちらだったのでしょうか?」
「当時、バプテスマのヨハネの洗礼運動の洗礼がヨルダン川でなされたことや、元来は清めの沐浴と関係があったことを考えると、川の流れる水に浸す浸礼の可能性の方が大きいと考えられますが、そこをはっきりと記した書物には出会っていません(岩井)」
「小磯さんは1933年、日本組合基督教会神戸教会(現日本基督教団神戸教会)で鈴木浩二牧師から洗礼を受けています。もちろん滴礼です。だから、洗礼のイメージは滴礼だったのでしょう」
3.「テキストには三福音書ともに“霊が鳩のように”とあって、『わたしの愛する子、わたしの心にかなうもの(詩編2:7、イザヤ42:1参照)』と『公生涯への召命』が宣言される場面なのに何故鳩が描かれていないのでしょうか?」
「絵画的イメージとしては鳩は描きやすいと思うのだけど」
「聖霊だから、人間には見えなかったのでは」
「この絵、何か迫力がないですね、感動が伴わない」
「そういえば、かたわらにいる人はヨハネの弟子なのだろうと思われますが、1人を除いて、視線がイエスの方を向いていませんね」
「画家にとってもうまく描ける作品もあり、うまく描けない作品もあり、というところでしょうか」
いずれにせよ「洗礼」は、だれにとっても問い掛けの性格を持って迫っているものなのでありましょう。