2009.4.22(水)12:20-13:00、湘南とつかYMCA “やさしく学ぶ聖書の集い”
「洋画家 小磯良平の聖書のさし絵から聖書を学ぶ」⑳
(明治学院教会牧師、健作さん76歳、『聖書の風景 − 小磯良平の聖書挿絵』出版10年前)
画像は小磯良平画伯「中風の人をいやす」
マタイ9:1-8、マルコ2:1-12、ルカ5:17-26
1.今日の絵について小磯さん自身がこう言っている。
(インタヴューアー)32枚を仕上げるには、随分時間もかかったのでしょうね。
「半年ぐらい構想を練って、描くのに半年くらいかかりました。失敗作もあるし、満足はしていませんけど、2、3点はいいと思うのがありましたかね。天井に穴をあけて病人を降ろし、キリストが癒す場面がありますね。その天井とのつりあいがうまくいった絵が僕は一番好きなんです」
(雑誌『繪』200号、p.28「神戸での閑談、そのゆるやかな時の刻み」長谷川智恵子)
2.ここのお話は、聖書学の福音書研究では「物語伝承」のなかの「奇跡物語」に分類されている。さらに「奇跡」の対象から「治癒奇跡」「自然奇跡」に分けられる内の「治癒奇跡」物語である。
奇跡物語の中心はイエスの「言葉」である。「子よ、あなたの罪は赦される」(マルコ2:5)と「わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい」(マルコ 2:11)が中心になっている。
言葉の誘因としての状況句として奇跡が語られる。「言葉」に状況の説明物語が付いている文学様式を研究者は「アポフテグマ(ギリシャ文学の術語)」といっている。アポフテグマ化された奇跡物語である。
3.一方、マルコ2:5b-10は、パリサイ人とイエスとの論争物語になっていて、こちらが本来の奇跡物語に挿入されたと考えられるので、話が複雑になっている。中心は「罪を赦し」得るイエスの権威が明らかにされる。これは著しく律法学者の面目をつぶした。なぜなら、罪の赦しは神の権威に属し、ユダヤ教ではこのために、祈り、悔い改め、贖いの犠牲の奉献儀式が規定されていた。それを無視したイエスの振る舞いは律法学者には絶対「許せぬ」出来事であった。まさに敵意をまともに受ける羽目になった。また、当時健康は、神の似姿としての人間の義務であったので、病気は罪の結果と考えられていた。罪の許しを得て回復すると考えられていた(橋本滋男「マタイ福音書」『新約聖書注解Ⅰ』日本基督教団出版局 1991、p.73) 。
4.ただ、田川建三氏(聖書学者)は、病気を罪と結び付ける考え方には反対する。イエスが病気に関して「罪を赦す」と発言しているのは、福音書でこの箇所だけであるので、一般化は出来ないという。この病人が「お前の病気は罪のためだ」と周囲から言われていたので「罪の赦し」が心理的に必要だったので、敢えて「罪の赦し」を宣言したのであろうという(『イエスという男』田川建三、三一書房 1980、p.274) 。
5.マタイは屋根をはがし穴をあける、という話を省いてしまっている。元来は「イエスはその人達の信仰を見て」(5節)に物語の中心があり、4人の男の熱意に応じるイエスの振る舞いの言葉化が「罪が赦された」という表現であった。物語性はマルコの伝承の方が遥かに豊かであり、絵画性がある。
6.小磯さんの絵の人物のさりげない表情に聖書テキストの細部がよく出ている絵だと思う。
7.この話に、それぞれ「テーマ」「題」を自分でつけてはどうだろうか。
たとえば「立ち上がれ」「床を取り上げて歩け」「4人の友人の熱意」「彼らの信仰を見て」「イエスの癒し」「驚き」などなど。