1983年8月15日「神戸新聞」掲載、兵庫県大百科事典執筆者「座談会」
出席者:小林信雄、岩井健作、笠原芳光(司会)
(神戸教会牧師5年、健作さん50歳)
(笠原)兵庫・神戸とかかわりの深いキリスト教といえば、プロテスタント、なかでも特に旧組合教会、旧メソジスト関係ですので、きょうは『兵庫県大百科事典』の執筆者でいらっしゃる小林(関西学院大学教授)、岩井両先生にこのあたりを重点的にお話しいただけたらと思います。私も宗教の項目副委員長をさせていただいた関係で、司会を兼ねて参加させていただきます。
文化・道徳などの精神 広まるプロテスタンティズム 明治初期のキリスト教
(笠原)最初に文明開化とキリスト教という問題ですが、神戸はキリシタン、カトリック、ギリシャ正教はあまり普及せず、むしろ近代の文明開化と一緒になったプロテスタントが大きな役割を果たしましたね。兵庫の港が外国に向けて開港されたのが慶応3年ですが、このことが、プロテスタントの発展の上で非常に大きかったといえるでしょう。明治初期のキリスト教、特にプロテスタンティズムは、単なる宗教としてだけでなく、文化、思想、道徳などを統合した一種の総合的な精神として入ってきたし、文明開化の精神とプロテスタンティズムが同時に神戸に広まっていったように思います。
(小林)神戸においてキリスト教と文明開化とが結びつくようになったのは、なによりも港町ということで、西洋との交流が盛んだったからでしょうね。
(岩井)現在、私が牧師をしている日本基督教団神戸教会は、神戸のプロテスタントの教会では一番古い組合派の教会なんですが、組合派は思想もリベラルで、教会を形成している信徒全員が教会政治や伝道を担っていくという特徴をもっています。それが港町神戸の開けた風土にマッチして、神戸から組合派の教会を中心に、たくさんの人物を生み出したのだと思います。この組合派は明治3年、D.C.グリーンによって神戸に伝えられました。宗教改革の時にカトリックに対抗して、新たに生まれた宗派、プロテスタントがアメリカに渡りいろいろな教派に分かれ、日本の開港と同時にどっと宣教活動を始めたわけですが、長老派の教会が東京に伝道地を作ってしまっていたので、彼は神戸を伝道地に選んだのです。
(笠原)つまり神戸は第二の土地なんですね。
(岩井)神戸に来た当初、グリーンは居留地で外国人のための集会を開きましてね。それが今のユニオン教会です。その後、なんとか日本人の間にキリスト教を広めようと、宇治野村に英語学校を開校し、英語を通じてキリスト教や新しい文化に触れさせながら、教会を作っていきました。讃美歌を神戸で最初に創作して歌ったのもこの教会です。先ほど言いましたように組合教会は信徒の自治を重んじるので、宣教師は自分ではイニシアティブを取りません。ですから、初代の正牧師には信徒の中から出てきた松山高吉がなっています。こういう具合に日本人が自分たちの文化を作る中で西洋の宗教を受容したわけで、クリスチャンに神戸の新しい文化の担い手が多かった所以じゃないかと思うんですよ。
(笠原)組合教会の文化的な面で重要なものに、明治8年創刊の「七一雑報」がありますね。7日に1回発行という意味で、日本のキリスト教の最初の新聞ですが、一般のジャーナリズムからいっても重要なものです。この新聞の実質的な主宰は O.H.ギューリックという宣教師でして、彼はその意図として文明開化と啓発とキリスト教文化の3点を挙げています。最初は西洋事情の紹介が大部分で、キリスト教の宣伝よりむしろ文明開化の普及が目的だったようですね。文明開化という言葉は福沢諭吉の訳語ですが、福沢の教えを受けた今村謙吉や前田泰一が「七一雑報」で働いています。
興味深い産業共同体・赤心社
(岩井)組合教会は教育、実業界とも密接にかかわっていますね。宣教師 E.タルカットは女子教育に取り組み、それが神戸ホーム、現在の神戸女学院に発展しましたし、神戸教会の婦人メンバーたちが幼児教育のため宣教師 A.L.ハウを外国から招いて、水準の高いフレーベル主義の教育を行い、現在の頌栄保育学院に受け継がれています。また、神戸の実業界を見てみても、当時新しい産業に取り組んだ人たちは、文明の新しい精神としてのピューリタニズムを活力にしていたんですね。たとえば沢茂吉が製乳業、鈴木清が牛肉の缶詰業、播磨幸七が日本で初めて化粧石鹸を作ったり、市田左右太が写真業を始めたりしています。そのほかこういう土壌の中から、旧三田藩が北海道に人材を送り、北海道の開拓会社赤心社を設立したりしました。その初代社長が三田藩の九鬼家の家臣の鈴木清です。赤心社のように宗教結社を中心とした産業共同体というは、非常に興味深いですね。
ランバス父子 日本で教育に力注ぐ
(笠原)教育界では、メソジスト関係でも関学の創立者ランバスが大きな功績を残していますね。
(小林)ランバス父子は南メソジスト教会の宣教師として、明治19年に初めて神戸に来ました。翌年の報告によると、神戸は日本中でもっとも健康な海港であるとか、条約港だから中国や欧米と交通があるとか、すでに25万の人が居住しているなどと言っています。ランバスのお父さんは、中国で32年間、医療伝道を行っていたんですが、日本では教育に力を注いだのです。日本に着いた翌日から居留地の自宅に読書館を開いて、それが今のパルモア学院の前身になったし、息子は関西学院をつくりました。4年後に2代目院長としてそれを引き継いだのが、ランバスから洗礼を受けた吉岡美国です。吉岡は人格者、教養人としても知られ、赤痢にかかっっている学生を家に連れて帰って面倒をみたり、京都の家を売って学生の学費を出してやったというような、この人の温厚篤実な性格を語る数多くの逸話が残っています。ランバスはまた現在の日本基督教団神戸栄光教会、当時の南美以美神戸教会を創立して初代牧師もしています。聖和大学の前身の一部もランバスの創立です。
特筆すべき賀川豊彦 教派を超えての活躍
(笠原)ここで他の教派にも触れておきますと、明治15年にリースによって伝えられたバプテスト。これは全身を水に浸す洗礼をする教派ですが、姫路を中心に広まりました。日の本学園はこの派の学校です。明治9年にフォス司祭(松陰女学校創設者)によって広められた聖公会は英国国教会系で乾行義塾のちの聖ミカエル国際学校をつくりました。プロテスタント以外では、明治期以前ザビエルが揖保郡(いぼぐん、現在兵庫県たつの市)の室津に来て伝道したり、明石城主の高山右近がキリシタン大名であったり、加西市には十字架地蔵といって、体に十字が刻まれた地蔵が残っています。仏教とキリスト教の混合の形ですね。明治元年に神父ムニクウによってカトリックが改めて伝道されましたが、明治期にはカトリックはなぜか振るっていませんね。
(岩井)固定的なカトリックの様式が、明治の初期、日本人の中にあった文化や価値観に対する自由な意欲を触発しなかったのではないでしょうか。
(小林)それと一つには地域の教会という色彩の濃いプロテスタントに対して、カトリックは全世界的なものであり宣教師主導型であることも大きいと思いますよ。
(笠原)そうですね。歴史の流れの中で明治のキリスト教は文明開化や国家と密接にかかわってきましたが、大正期になるとかなり個人主義的な傾向が強くなり、その意味で人物がクローズアップされましたね。その中で特筆すべきは、なんといっても賀川豊彦でしょう。明治21年に兵庫区の島上町に生まれ、明治学院から神戸神学校に学び、明治42年に現在の中央区の新生田川下流付近の貧民救済に粉骨砕身の活躍をしました。単にキリスト教だけでなく、労働運動や農民運動など、その活躍は多岐にわたっていますね。
(小林)賀川豊彦は単なる伝道者というより、社会活動家、あるいは総合的な意味での大きな指導者と言えるでしょう。膨大な著作の執筆、三菱・川崎両造船所のストライキの指導もすれば、生協運動を全国的に広めるようなこともしていますからね。最近一部では賀川批判というようなことも出てきていますが、欧米では日本のキリスト教の代表は賀川という定評がありますよ。それと関学とのかかわりで言えば、社会学科の設立と時期を同じくしていて、非常に彼の影響を受けた面があります。
(岩井)実践面はもちろんですが、資本主義の社会悪に対して問題を提起し目を開かせるという精神面での彼の影響は多大でしたね。基本的なキリスト教のあり方について、大きな問題提起をした訳ですから。
(笠原)ともかく功罪を含めて大人物ですよ。出身教会から言えば長老派ですが、教派を越え、キリスト教を越えての活躍ですからね。ところで関学関係で、ほかに特色のあるクリスチャンといえば誰でしょう。
(小林)大正7年に関学の教授になった政治学者の河上丈太郎はその一人でしょうね。松沢兼人や小山東助もその頃きて、学生に大きな影響を与えています。
時代の先端を行く思想の持ち主 米沢尚三
(笠原)一般には知られていないですが、組合教会関係では大正期に神戸教会の牧師であった米沢尚三がいますね。
(岩井)彼は時代の先端を行く思想の持ち主で、ビジネスマンへの伝道を目的として、日本で最初の木曜日の正午礼拝を開きました。
(笠原)あれはかなり評判になったようですね。晩年にはキリスト教と社会主義思想を結びつけて『無産者イエス』という本を書いたりしましたが、大正年間の神戸という土地にふさわしい牧師であったような気がします。その他、クリスチャンの中でもっとも強く戦争に抵抗した人物として知られる明石順三が最初に伝道した地が須磨でしたね。
(岩井)社会事業家では矢野彀(やごろ)が神戸でキリスト教関係の最初の社会事業として始めた神戸孤児院は、後に神戸真生塾となりました。また、文化や社会とキリスト教を結びつけた団体であるYMCAの創設は明治19年ですがYWCAと共に発展したのは、やはり大正年間です。
(笠原)最後に兵庫、神戸の風土とキリスト教という問題に触れておきたいと思いますが、海に開かれた神戸の明るさはプロテスタント的ですね。
(小林)兵庫県というのは神戸や阪神間と、他地区とを比べると、キリスト教普及の地域差が非常に大きいですね。都会でなくても、たとえば三田には九鬼隆義のような開明的な藩主や川本幸民のような蘭学者がいて明治期には三田から指導的立場のキリスト教徒が生まれたのに、どうしてその伝統が受け継がれていないのでしょうね。
(岩井)キリスト教が農村問題に取り組み切れなかったということではないでしょうか。
(小林)地方の伝統的、保守的な精神構造の厚さという問題もありますね。キリスト教、特にプロテスタントがそういう風土に馴染みにくいのかもしれないのですが、これを普及させるためには、仏教や神道が土着していったような、その土地にあった土着の仕方を考えなくてはいけませんね。十字架地蔵とまでいかなくても。
(笠原)現代はある意味で近代文明が反省されている時期ですが、近代の宗教であるプロテスタントも、このあたりで県下の各地に入っていく道を考える必要があるようですね。今日はどうもありがとうございました。
『兵庫県大百科事典』と兵庫のキリスト教(1984)

