1983年9月4日、聖霊降臨節第16主日、
説教要旨は翌週の週報に掲載
(牧会25年、神戸教会牧師6年目、健作さん50歳)
コロサイ人への手紙 1:1-8、説教題「忠実な兄弟たち」岩井健作
手紙を書く時、最初の挨拶をどう書き始めるか、よくためらい戸惑うものです。
形式に則った平凡な常套句を用いながらも、その言葉にどれほどの真実を込めることが出来るかどうか、いわば自分の全貌が露わになる怖さがあるのかもしれません。
コロサイ人への手紙1章1節の語順は、「パウロ、使徒、キリスト・イエスの」となっています。
冒頭の「パウロ」の一語への思いだけでも、そこには様々な内容が込められている。
何よりも彼は強力な個性である。
神は強力な個性を用いて宣教のわざの展開をされます。
「使徒」。狭義では12使徒を指しますが、ここでは地上のイエスとのつながりにさえ、直接権威づけられない「つかわされたもの」の意。
ガラテヤ人への手紙では「人々からでもなく、人によってでもなく、イエス•キリストと彼を死人の中からよみがえらされた父なる神によって立てられた使徒パウロ」(ガラテヤ 1:1)と言っています。
ここまで論理を展開しないところに「コロサイ人への手紙」の味が、逆な意味であります。
「イエス・キリストの」。「の」は文法的には属格。自分の人格の所属、拠り所たる関係を示します。
キリストの人格的な関係なしにはあり得ない自分を示しています。
それを他の言葉で言い換えたのが「神の御旨による」という言葉です。
”神の御旨によるキリスト・イエスの使徒パウロと兄弟テモテから、コロサイにいる、キリストにある聖徒たち、忠実な兄弟たちへ。わたしたちの父なる神から、恵みと平安とが、あなたがたにあるように。”(コロサイ人への手紙 1:1-2、口語訳)
神の意志、神の計画は本来人間を超えた究極のものを示していますが、ヘタをするとこの宗教的通俗表現「神の御旨による」はその通俗性を破ることが出来ませんが、自分本位というものの破れを超えて、なお支えられる実存の現実を抱え込んでいる者の言葉となる時、力を持ちます。
パウロの全生涯のかかった言葉です。
「コロサイ人への手紙」の著者はそのすぐ後で「恵みと平安」ということを言っていますが、これは自分というものがまずあって、そこに加えられる「恵みと平安」ではなく、根源的な神との結びつきの深さの中で自分を顧みていることではないでしょうか。
2節「コロサイにいる、キリストにある聖徒たち、忠実な兄弟たちへ」は、コロサイの「小さな群れ」の信徒たちを示しています。
この教会は決して立派な群れではありませんでしたが、神の救いに立つ故に「聖徒」と呼ばれ、教会というものの根本性格を示しています。
3〜8節は著者の感謝と祈りですが、神の恵みの事実の中に深く組み込まれて歩んでいる群れの確かさが感謝されています。
特に「すでに伝えられた福音」が「実を結んで成長している」ということに慰め深いものを覚えます。
”わたしたちは、いつもあなたがたのために祈り、わたしたちの主イエス・キリストの父なる神に感謝している。これは、キリスト・イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対していだいているあなたがたの愛とを、耳にしたからである。この愛は、あなたがたのために天にたくわえられている望みに基くものであり、その望みについては、あなたがたはすでに、あなたがたのところまで伝えられた福音の真理の言葉によって聞いている。そして、この福音は、世界中いたる所でそうであるように、あなたがたのところでも、これを聞いて神の恵みを知ったとき以来、実を結んで成長しているのである。あなたがたはこの福音を、わたしたちと同じ僕である、愛するエパフラスから学んだのであった。彼はあなたがたのためのキリストの忠実な奉仕者であって、あなたがたが御霊によっていだいている愛を、わたしたちに知らせてくれたのである。”(コロサイ人への手紙 1:3-8、口語訳)
当時のローマ世界で、権力によって構造化された人間関係を破って、神の尺度に生きる群れの確かさがそこに描かれています。
そのような群れ、「忠実な兄弟たち」の群れを継承する者として、今日の状況の中での「教会」を捉えてまいりたいと存じます。
(1983年9月4日 説教要旨 岩井健作)