執り成し《コロサイ 1:9-14》(1983 説教要旨・週報)

1983年9月11日、聖霊降臨節第17主日、
説教要旨は翌週の週報に掲載
(翌週、宝塚福井教会での講壇)

(牧会25年、神戸教会牧師6年目、健作さん50歳)

コロサイ人への手紙 1:9-14、説教題「執り成し」岩井健作
”絶えずあなたがたのために祈り求めている”(コロサイ人への手紙 1:9、口語訳)


 この間テレビで、戦後北海道の原野に体ひとつ鋸ひとつで開拓に入り、30年余労苦した人の紹介番組があった。

 印象に残っているのは、電気が引けて搾乳機が導入された時、その老人は搾乳機の精巧さと威力よりも「電気」というものの力は驚きいったという姿であった。

 これは一つの比喩だが、自分の信仰の姿勢への示唆を促された。


 信仰の生活には、ここでいう電気そのものの様な、使用者側の努力を超えた客観的な要素がある。

 神の(人の内側からは出て来ない)恵み、神の恩寵、福音、と聖書はいう。

 他方、器具の精巧さに属するような体験的要素がある。

 これは人の努力で進歩する。

 信仰生活でいえば証しの素晴らしさに属する。

 前者を真理契機、後者を経験ないし体得契機というならば、その双方を通して「神」は知られる。


 さて、コロサイ人への手紙1章9節〜14節は、手紙の著者のコロサイ教会への祈りであるが、第一の祈り(9〜10節)は、この教会の信徒が、「神を知る知識をいよいよ増し加えるに至るように」と祈っている。

 ”そういうわけで、これらの事を耳にして以来、わたしたちも絶えずあなたがたのために祈り求めているのは、あなたがたがあらゆる霊的な知恵と理解力とをもって、神の御旨を深く知り、主のみこころにかなった生活をして真に神を喜ばせ、あらゆる良いわざを行って実を結び、神を知る知識をいよいよ増し加えるに至ることである。”(コロサイ人への手紙 1:9-10、口語訳)


 なぜこう祈らざるを得ないのかを逆に考えれば、彼らの知り方が「知恵と理解力」が「霊的」(同9節)ではなかったのであろう。

 ここで「霊的」とは、知的に対象化できない「神からの力」に動かされてその体験としての「生活」と「良いわざ」を通して神を知る知り方の根源を示している。

 真理契機と体得契機の順序と相互関係へのわきまえのある知り方が祈られている。

 頭だけで知識的に知る知り方(グノーシス主義)は厳に戒められるべきことが祈られている。


 祈りの第二(11〜12節)は、神の力によって強くされ、現実の状況の中で「喜んで耐えかつ忍び」(11節)、かつ終末論的希望に繋がっていることを感謝できるように、ということである。

 ”更にまた祈るのは、あなたがたが、神の栄光の勢いにしたがって賜わるすべての力によって強くされ、何事も喜んで耐えかつ忍び、光のうちにある聖徒たちの特権に預かるに足る者とならせて下さった父なる神に、感謝することである。”(コロサイ人への手紙 1:11-12、口語訳)


 体験とか体得というものは困難な状況を終末論的希望に支えられて、喜びをもって生きることで深められる。

 状況から逃げてはだめである。

 「耐える」ことは持続力を表し、「忍ぶ」ことは人間関係における寛容(Ⅰコリント 13:4、ロマ 2:4)を表す。

 大事な祈りである。

 ”愛は寛容であり、愛は情深い。”(コリント人への第一の手紙 13:4a、口語訳)

 この二つの祈りは、コロサイの人たちを神の前に責任ある者として立たしめ、教化と希望に開かれたものとしている。

 祈りを持つ人が傍にいるということは、教会の特質である。

 その根底にはローマ人への手紙8章26〜28節で示されている「切なるうめきをもってわたしたちのためにとりなして下さる」存在のあることが示唆されている。

 ”御霊もまた同じように、弱いわたしたちを助けて下さる。なぜなら、わたしたちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊みずから、言葉に表せない切なるうめきをもって、わたしたちのためにとりなして下さるからである。そして、人の心を探り知るかたは、御霊の思うところがなんであるかを知っておられる。なぜなら、御霊は、聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをして下さるからである。神は、神を愛する者たち、すなわち、ご計画に従って召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにして下さることを、わたしたちは知っている。”(ローマ人への手紙 8:26-28、口語訳)


 この祈りの中で息づいて活かされていきたい。

(1983年9月11日 説教要旨 岩井健作)


1983年 週報

1983年 説教

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