1983年8月14日、聖霊降臨節第13主日、
説教要旨は翌週の週報に掲載
(前々日、父・岩井文男氏逝去)
(17日-31日:夏季休暇・北海道)
(牧会25年、神戸教会牧師6年目、健作さん50歳)
ミカ 4:1-7、マタイ 5:13-16、説教題「地の塩・世の光」岩井健作
”あなたがたは、地の塩である。
あなたがたは、世の光である。”
(マタイ 5:13-14、口語訳 部分引用)
「地の塩・世の光」という言葉には、イエスの温かいまなざしがあります。
人はこの言葉にふれると、自分はとても「地の塩・世の光」などにはなり得ない、と言います。
『キリストの証人たち 地の塩として 1〜4』(四竈揚・関田寛雄編、日本基督教団出版局 1975)という本にも出てくる秀れた人材などを思うと、それも事実です。
地の塩・世の光であれ、というあるべき姿への要請と受け取れば、この言葉には現実批判と叱責があることは確かです。
マタイ福音書の編集者も、当時の教会人を見据えていたのかもしれませんし、またそれは今日の教会にも言えましょう。
しかし、この言葉の奥底知れない力はもう一つ別のところにあります。
「あなたがたは地の塩ですよ」という、主イエスの私たちへの温かいまなざしです。
期待、励ましです。
私たちはここで、自分が自分自身を見るよりも、はるかによく主イエスが私たちを見てくださっていることを知って、自分の思いを変えていくことを求められています。
このことは先に述べた様なこの言葉の持つ別な面、批判、叱責、審きという面を排除するものではなくて、それを包んでいます。
いわば木の枝に対する根の如き関係です。
「愛にあって真理を語り」(エペソ 4:15)とありますが、審き、批判し、糺す、真理を支える愛です。
私たちは「地の塩・世の光」という言葉の中に、真理と愛との両面を同時に知らされます。
この言葉の両義性を悟ることこそ、言葉を媒介とした人格の関わりの深さです。
神との関係もそうです。
イエスの生涯と振る舞い、言葉と思想を通して私たちに関わり給う神は、審きとゆるしの両義性をもって自らを示されます。
その意味で「地の塩・世の光」という言葉の中に、その両義性を悟るようにとの促しは大事です。
それは神の信頼と愛を受け入れ、その叱責と養いを受け入れ、自らを神の賜わる将来や理想に向かって開いていくことです。
『「甘え」の構造』(土居健郎、弘文堂 1971)の中で、言葉の両義性を悟りつつ人との交わりをすることが大変難しくなっていると指摘されていますが、現代の病理でしょうか。
私たちが、人と人との関わりを深め豊かにしていく言葉(「塩で味つけられたやさしい言葉」コロサイ 4:6)を語り得るとするならば、それは私たちが「地の塩・世の光」として神から信頼されていることに根があるからでしょう。
「塩」は溶けて味を出すように自己存在の主張を破った生き方ですし、「光」は他を照らすために自己を明確にした生き方です。
その個の表現の多様さが関係を豊かにします。
そのように主の恵みを生きようではありませんか。
(1983年8月14日 説教要旨 岩井健作)