1981年11月8日 神戸教会週報掲載
礼拝説教要旨
(神戸教会牧師4年、健作さん48歳)
ヨハネ福音書 15:12-17
”わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい。人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。あなたがたにわたしが命じることを行うならば、あなたがたはわたしの友である。わたしはもう、あなたがたを僕とは呼ばない。僕は主人のしていることを知らないからである。わたしはあなたがたを友と呼んだ、わたしの父から聞いたことを皆、あなたがたに知らせたからである。あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである。そして、あなたがたを立てた。それは、あなたがたが行って実をむすび、その実がいつまでも残るためであり、また、あなたがたがわたしの名によって父に求めるものはなんでも、父が与えて下さるためである。これらのことを命じるのは、あなたがたが互に愛し合うためである。”
(ヨハネによる福音書 15:12-17、口語訳)
「あなたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだのである」という句は、聖書の思想の根本を言いあらわしています(他にヨハネ第14:10参照)。
私たちが神を知っているのではなく、否、神に知られている(ガラテヤ 4:9)と言われてもいます。
神と人とのこの関係の最も良き注解は聖書自身の中にある「放蕩息子と父親の物語」(ルカ15:11以下)でしょう。
財産(お金)の授与者としてしか父親を考えていなかった息子は、放蕩の挙句の飢饉で、身も心も打ちのめされ、罪に目覚め、どん底で自分の本心を開いてくれる人として父を改めて想起して、故郷に帰ったとき、1日も忘れずに息子の帰りを待っていた父に迎えられた、という物語です。
ユダヤ人の哲学者マルチン•ブーバーが言っている「我 – それ」「我 – 汝」の関係に置き換えれば「私」が中心で相手を「それ = もの」と考える(父 = 財産)生き方を否定して、人格としての父に出会って「父(我)と息子(相手)」の関係を初めて知ったと言えましょう。
ここで大事なのは、二つの関係が並列してあるのではなくて、自分中心の生き方にゆき詰んだところで、それの否定として、自分がかけがえのない人格として扱われる関係が既に開かれていたことに気づかされたということです。
ヨハネはこの「気づかされること」を信仰と言っています。そして「光は闇の中に輝いている。そして闇はこれに勝たなかった」(ヨハネ 1:5)、だから信仰が可能なのだと言います。
「主人と僕(奴隷)」の関係(闇、例えば人間を支配可能な者としか考えない社会構造)は決定的支配力を持つのではなく、「友」と呼ばれる人格の相互関係(光)がフィルムを感光させる1000分の1秒の光のごとく闇の世界に入ってきている。友のために命を捨てた十字架の愛の出来事(福音)は確かなのだ(ヨハネ 15:13)、だから、負け戦をしているのではなくて、逆転のチャンスのある試合のごとき生き方を許されているのだ、「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ 15:12,17)、こう説かれています。
私たちは「我 – それ」の生き方に埋没させられるのではなく、「それ」の背後に「人格」が見えてくるような生き方へと招かれているのです(例えば、岩村昇博士が一本の割り箸の背後にネパールの人を見たように)。
神の選びに生きるとは、「物」が自己の所有と見えるのではなく、その背後に人格が見える生活へと選び出されることなのです。
(1981年11月8日 神戸教会朝礼拝説教要旨 岩井健作)

