ヨブ記を再び読む《2:11-3:10》(2002 礼拝説教・新年・週報)

2002.1.6、 神戸教会、神戸教会週報、降誕節第二主日

(牧会44年、神戸教会牧師 24年目、健作さん68歳)
(阪神淡路大震災から7年、神戸教会牧師退任まで3ヶ月)
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ヨブ記 2:11-3:10、説教題「言葉の受胎」

 私が、日本基督教団の教師試験を受けた時の旧約聖書の試験問題の一つは「ヨブ記の意義について記せ」というものでした。

 出るだろうと多少かまをかけていたので、「私にとって、教会にとって(教師になるのですから)、日本人にとって、現代という時代にとって」というような視点を立てて、不十分ながら答案をまとめたように思います。

 出題者をかなり意識していました。その後何回もヨブ記を読みますが、読む度に受け取り方が違っているのは、この書物が、旧約学者でかつ牧師であった当時の試験委員長・浅野順一先生が「ヨブ記は実存的書物だ」と言われるように、時代を超えて読者の実存を撃つ書物だからでしょう。


 さて、今日の箇所ですが、今回は「やがてヨブは口を開き…」(ヨブ記 3:1)というところに心を動かされました。

 ヨブは苦難のどん底にいます(ヨブ記 1-2章)。友人たちは常識的な見舞いや慰めの話しかけを失います(2:11、2:13)。

 そこからヨブ記のドラマが始まります。

 旧約聖書の中で人が自分の誕生の日を呪う記事が2箇所あります(エレミヤ書 20:14-15、ヨブ記 3:3-4)。ここはその1箇所です。

 ここからヨブ記の登場人物の間での緊張と対立が始まります。

 ヨブは友人と対立し、神と正しさを争います。そこには他者の強烈な意志があり、自他の意志がぶつかりあって最後まで差異は意識されます。

 ヨブ記を読んでいて気付くことは、ドラマが持っている対話の深まりがないことです。

 お互いが自分の立場を「弁論」で延々と述べているだけです。

 友人たちは、ヨブを論駁する論理を最後まで変えません(罪を犯したから、あなたは苦しむのだ:因果応報説)。

 それに対して、ヨブは「正しい者が何故苦しむのか」という現実からの叫びを変えません。

 そこには「論理」と「言葉」のぶつかり合いがあります。

「論理」と「言葉」はどこが違うのでしょうか。

 およそ論理は、自己完結的です。しかし、本来「言葉」は開かれていることを予想しています。言葉の完結はないのです。

 最も破れている言葉は、独白や叫びです。ヨブ記は、叫びから始まり、最後に神との関わりで破れるところまで行きます。

 今日の箇所は、ヨブが言葉を獲得する(実は与えられる)長い時間の経過を示しています。

 その意味で、ヨブ記の実質的テーマが滲み出ているところです。


「言葉が肉となり、わたしたちの間に宿られた」(ヨハネ 1:14)は、示唆的です。

 イエスの出来事とその経過そのものです。

 私たちは、人生の出来事に出会う度ごとに自分の理屈に破れて、うめきを含めて言葉を紡ぎ出してゆきたいと存じます。



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