そこで、イエスは言われた。……「神の国を何にたとえようか。パン種に似ている。女がこれを取って3サトンの粉に混ぜると、やがて全体が膨れる。」(ルカによる福音書 13章18−21節、新共同訳)
2010.2.14、明治学院教会礼拝
◀️ 隠された恵み(2008年版)
▶️ 隠された恵(川和教会)
(明治学院教会牧師、76歳)
ルカによる福音書 13章18−21節
1.隠喩とイメージ
新約聖書の福音書の中にはイエスの譬え話が沢山集められている。「イエスはたとえでいろいろと教えられた」(マルコ 4:2)と記されている。その中には「譬え話」(良いサマリヤ人、ブドウ園の労働者、放蕩息子)という物語またはお話になったものもある。
しかし、もっと短い「隠喩(メタファー)」が多い。隠喩は情報よりもイメージを与える。
例えば「パンダ」というニックネームで教師を語る生徒は、結構「パンダ」の隠喩で楽しんでいる。
イエスの「パン種」の譬えは隠喩。「パン種」の隠喩から「神の国」のイメージが与えられる。
2.譬えと信頼
イエスはイメージを抱くことができる者として聞き手を信頼されているのだ。このことは凄いことだ。
当時の宗教家・ユダヤの律法学者は難しい神学は知っていたが、パン種で「神の国」のイメージを抱くことはできなかったであろう。貴族や上層部の宗教家は自分でパンを焼く生活をしていないからイメージも浮かばない。
だからイエスが「パン種」の譬えを語ったことそのものが、通俗的な宗教への先入観を壊しているのだ。
イエスは当時、彼のお話の聞き手であった農民が種を蒔き、主婦がパンを焼く生活を丸ごと包んでいるのである。
イエスのお話は、宗教の知識情報を与えてはいない。膨らむパンの経験が持っているイメージ(象徴)そのものなのである。
「神の国を何にたとえようか。”What shall I compare the kingdom of God to?”」
主語はイエスご自身である。イエスが抱いている「神の国」が、私たちの経験の中に入ってくるのだ。
私たちが、特別な宗教的真理を学んで、その世界に入るのではない。日常性から抜け出して、宗教の教えや教義の世界に入るのではない。
もちろん、そこで抱いたイメージを自分の言葉で言い換えることはできる。例えばパウロは自分の信仰体験をこう表現し、説明している。
神を愛する者たち、つまり、御計画に従って召された者たちには、万事が益となるように共に働くということを、わたしたちは知っています。(ロ−マの信徒への手紙 8:28、新共同訳)
パン種が膨らんで、パンを焼く経験は、「万事が益となる」という信仰の世界に通じているのである。「万事が益となる」という言葉は、その経験に目を開かせるのだ。
3.「神の国」「パン種」(ルカ 13:20)
譬えによると、どうも大きな話である。
「3サトンの粉」とある。聖書の付属「度量衡」によると(1サトン=12.8リットル)40キログラム位だ。貧しい普通の家庭での量をはるかに超える、大きな、重量感のあるイメージだ。日常の常識を超える大きな幻がそこにはある。
私は、今、明治学院という学校の中で礼拝をしている教会の牧師をしている。明治学院の創設者ヘボンの働きを見るととてつもなく大きい。「1860年に始められたクララの英語塾は後ヘボン塾になり、今日の明治学院、フェリス女学院に繋がる一粒の麦となった。」(『ヘボンの生涯』中島耕二)。「神の国」に生きる者は幻を与えられる。
4.「パン種を……粉に混ぜると(mixed)」(ルカ 13:21)
この「混ぜる」は「隠す」(エンクリュプトウ)の意味。「神の国」は隠された仕方でやってくる。パン種は、粉の中のどこにあるのか分からない。そこで生地全体に浸透して、抑えがたい力を発揮する。神の力が隠されていて、生きて働いていると考えただけで、大きな希望を与えられる。
5.「やがて全体が膨れる」(ルカ 13:21)
「神の国」は一つの定義ではない。定義は固定的だが、「神の国」(神の御旨がはたらいている関係)は、全体が膨らむ過程(プロセス)である。
イエスは「神の国」について説明したのではない。自らがその中に生きる「物語」を語った。観念の思い込みに引き入れたのではなく、わたしたちがその「物語」の一部になって、つまりその物語の担い手になり、語り手に組み入れられて、生きるように招いたのだ。その物語のなかで成熟して生きるように招いているのだ。
詩編34編の言葉を味わい終わりたい。
味わい、見よ、主の恵み深さを。
いかに幸いなことか、御もとに身を寄せる人は。
(詩編 34:9、新共同訳)
6.祈り
わたしたちの日常の些細な、綿々と続く生活に隠された恵みを味わう喜びを、今日から始まる日々にお与えください。主の御名によって祈ります。アーメン。
▶️ 隠された恵(川和教会)