小磯良平の絵画と聖書(2008 新生会・農村伝道神学校)

2008.11.19(木)高崎、新生会 教養講座
2008.12.11(木)農村伝道神学校集中特別講義
「私の宣教論(1)」

(明治学院教会牧師、健作さん75歳)

第1部 洋画家・小磯良平の略年譜

1903(明治36)7/25 旧三田九鬼藩の旧家、貿易商・岸上文吉・こまつの8人兄弟次男。神戸市中山手7丁目に生まれる。湊山・平野小学校に学ぶ。

1917(大正6)14歳 県立二中入学、田中忠雄、竹中郁と出会う。

1922(大正11)19歳 東京美術学校西洋画科に入学。

1925(大正14)22歳 父が死亡、小磯吉人(製薬会社経営)・英(祖母の姪)の養子となる。この年、第6回帝展に「兄妹」入選。

1926(大正15・昭和元)23歳「T嬢の像」第7回帝展特選。(モデル落合[河野]敏子さん)

1927(昭和2)東京美術学校首席で卒業。卒業制作「彼の休息」(モデル竹中郁)「自画像」。

1928−30(昭和3-5)25-27歳。渡仏。竹中郁と。

1932(昭和7)29歳「裁縫女」第13回帝展特選。萩原貞江と神戸教会で結婚。

1933(昭和8)30歳。日本組合神戸教会で鈴木浩二牧師より受洗。長女嘉子誕生。「和洋服の二人」(神戸港まつりポスター)

1935(昭和10)32歳。帝展改組に反対。第二部会結成。「休息するバレリーナ」「踊り子」

1936(昭和11)33歳。次女・邦子誕生。純粋美術をめざし「新制作派協会」結成。

1937(昭和12)34歳。女性雑誌「新女苑」の表紙絵を描く(76回)。都新聞連載、丹羽文雄「薔薇合戦」挿絵を描く(218回)。

1938(昭和13)35歳「練習場の踊り子達」陸軍報道部の委嘱で、支那事変記念画のため9名と共に上海にわたる。「主婦の友」挿絵連載(30回)。

1940(昭和15)37歳「南京中華門の戦闘」「兵馬」朝日文化賞。陸軍省より派遣画家に選ばれ2度目の従軍。

1941(昭和16)38歳。第2回聖戦美術展審査員。同展に「娘子関を征く」(芸術院賞)。10月「斉唱」(共に群像表現と言われている)。

1942(昭和17)39歳。3度目従軍、ジャワ、バリ島。「ジャワ、カリジャティ停戦協定の場」

1943(昭和18)40歳。新制作派協会展に「母子像」。新戦場従軍画家に選ばれる。第2回大東亜戦争美術展審査員、藤田嗣治・宮本三郎と共に委嘱作「皇后陛下陸軍病院行幸」出品。

1945(昭和20)42歳。神戸空襲でアトリエを失う。中島一郎方に転居。

1946(昭和21)43歳。神戸滝の茶屋に転居。「二人の少女」

1947(昭和22)44歳。頌栄保育専門学校非常勤講師。

1949(昭和24)46歳。神戸住吉山手にアトリエ。夕刊新大阪、高見順「分水嶺」挿絵(134回)。

1950(昭和25)47歳。東京芸術大学油絵科講師。「o博士像」

1953(昭和28)50歳。神戸銀行本店に「働く人びと」制作。 第17回新制作派「働く人」。
東京芸術大学教授。

1956(昭和31)53歳。『薬用植物画譜』出版。武田薬品工業の『武田薬報』の表紙に描いたスケッチ 150種掲載。

1957(昭和32)54歳。朝日新聞連載、石川達三『人間の壁』挿絵(593回)。

1961(昭和36)56歳。朝日新聞、川端康成『古都』の挿絵(107回)。

1962(昭和37)59歳。銅版画制作を始める。「D嬢の像」。

1967(昭和42)64歳。週間朝日連載・丹羽文雄『晩秋』挿絵(180回)。三浦綾子『積み木の箱』挿絵(326回)。これまでの挿絵はおよそ4,000点。

1968(昭和43)65歳。日本聖書協会・鈴木二郎、聖書の挿絵の交渉を始める。鈴木は70余りの場面を示唆、資料を提供。32葉は小磯の選択。

1970(昭和45)67歳。アメリカより戦争画 153点が無期貸与の形で返還され「娘子関を征く」他、東京国立近代美術館に収蔵される。

1971(昭和46)68歳。『口語聖書』の挿絵完成(旧約15点、新約17点)。『口語聖書画集』出版。東京芸術大学退官。『小磯良平画集』(求龍堂)刊行。

1974(昭和49)71歳。「迎賓館赤坂離宮」に壁画「絵画」「音楽」制作。

1983(昭和58)80歳。文化勲章受賞。妻・貞江没。

1987(昭和62)84歳。「帽子の少女」(最後の作品)。大規模な小磯良平展全国巡回。

1988(昭和63)85歳。1988年12月16日、肺炎にて死去。同19日、日本基督教団 神戸教会にて牧師・岩井健作により葬儀。

1992(平成4)「神戸市立 小磯記念美術館」開館。

補遺 多少の岩井の小磯論。小磯さんの思い出とエピソード。神戸教会の女性の系譜に属する人。葬儀テキスト、マタイ5:8「神を見る」。平井城さんの肖像画のこと。

第2部「洋画家 小磯良平の聖書の挿絵から聖書を学ぶ」

1.小磯は1968年ごろから1971年まで約2年余かけて、日本聖書協会の要請で、聖書の挿絵32葉を描いた。原画は「笠間日動美術館」に寄贈され保存されている。

 日本聖書協会は『口語聖書画集』(1971)、『聖書 − 聖画入り』(1980口語)、 『聖書 − 新共同訳 − 聖画入り』(1987)を出版した(2008年 B6版新刊)。

2.神戸市立小磯記念美術館は2008年4月11日− 5月25日に「小磯良平聖書のさしえ展」を同館にて開催し『図録』を出版、「小磯良平と聖書の挿絵」辻智美(同館学芸員)の研究論文資料を収録した。

3.これを契機に、岩井は「やさしく学ぶ聖書のつどい」を横浜、湘南とつかYMCAにて月2回開催、小磯の聖書の挿絵を中心にして、① 現代聖書学の文脈で小磯の選んだ聖書テキストの背景を理解する。どうしてこの場面なのか。② 小磯の絵の表現がそのテキストのメッセージと如何に触れ合っているかを読み説く。構造・人物配置・背景など。③ そのテキストを現代の文化・社会・政治・経済・宗教との関連を考え洞察を深める、という狙いで、現在9回を終えた。今日は、その一つ、第10回「ボアズの畑で落ち穂を拾うルツ」を紹介し、聖書を読むことへの示唆を述べたい。その意図をくみ取っていただければ幸いである。

第3部「ボアズの畑で落ち穂を拾うルツ」 ルツ記 2章1−23節

1.「落ち穂拾い」といえばだれもが、1858年にフランスのジャン=フランソワ・ミレーによって描かれた作品を思い起こす。朝の太陽に照らされ麦の落ち穂を拾い集める三人の貧しい農婦が描かれている。農民画家ミレーはおそらく旧約聖書の故事を心に描いていたであろう。

 古代イスラエルの社会法は寄留者・孤児・寡婦にたいして落ち穂を拾う権利を認めていた(レビ記19:9-10 、申命記24:19-22)。ミレーは『ルツ記』の一場面から「刈り入れ人たちの休息(ルツとボアズ)』を描いている。

 聖書はアブラハムからダビデに至り、やがてメシヤと呼ばれるイエスにつながる長い系図(新約聖書マタイ1:1-16)を語る時、「ボアズはルツによってオベドをもうけ」という一句を注意深く入れている。ルツという異邦人女性の名が聖書に光る一瞬である。

2.ルツ記はわずか4章の物語である。四幕ものの劇を思わせる。

 第一幕。飢饉でユダヤのベツレヘム在住の一人の男エリメレクがモアブに移り住んだ。彼も二人の息子のその地で死んだ。残った妻ナオミ(快い)は、息子たちの異邦人妻たちに「自分達の里」に帰り再婚することを促す。しかし、嫁の一人ルツは自分の将来の可能性よりも悲惨な寡婦となった義母と運命を共にする決意を固くする。そして姑の苦難の帰国に同伴する。

 第二幕。ベツレヘム(「パンの家」の意)には、ナオミの亡き夫エリメレクの有力な親戚ボアズがいて「ゴーエール(家を絶やさないように責任を果たす親族の意。元来は、買い戻す、贖う、の意味。レビ記25:23 以下)」の責任から、この寡婦とその嫁に厚意を寄せ「落ち穂拾い」を手厚く守る。

 第三幕。ナオミはボアズへの接近を試みる。それを受けてルツは大胆に積極的な求婚の行動にまでいたる。厚意は好意に変わる。思慮深いボアズは「町の門(公の証人)」の法的な手続き経て、レヴィラート婚(創世記38章、申命記25:5-10)の精神をいかし、ルツと結婚するという物語である。

3.小磯さんが描いたのは、この物語ではボアズとルツが計らずも出会う場面である。落ち穂を拾った畑は「たまたまエリメレクの一族ボアズの所有する畑であった」 という。ボアズは農夫の監督に「あの若い女は誰の娘か」と聞いた。彼は「モアブの娘」と答えた。この表現はこの書物で7回繰り返される。荒井英子氏によれば、この表現には異邦の女への「侮蔑の響き」があるという(『旧約聖書略解』2001 日本基督教団出版局 p.315)。

 その日の糧を求めるルツのひたむきさ、老練な監督の主人への忠実さ、ボアズのしたり顔がよく描かれている。遠景には取り入れに忙しい雇い人たちが風景をなしている。美術館が保存する小磯さんの下絵は2枚あって、一枚はボアズを中心として、土地の権威者が右手をルツに向けて問い質すような位置にあるが、小磯さんはその構図を用いなかった。

4.「落ち穂拾い」には幾つかの現代的テーマが含まれている。「寡婦」の社会的地位とそれを支える社会法というテーマ。イスラエルの古代ですら機能を果たしていた「落ち穂拾い」ほどの「社会的連帯」の原理は、人間が「競争原理」の「新自由主義」によって貧困のどん底に丸投げされている時代にどうなっているのかというテーマ。異邦人の疎外が如何に克服されるべきかという、現代でいえば多民族共生の課題。ルツ記の最後(4:18-22)が男系ダビデの系図で締めくくられているように、女性の物語が語られつつも、ルツ記の一定の限界(荒井英子)という問題。

5.しかし、この書物には通低音のように「主の慈しみ」(ヘッセド[愛、慈しみ、真実、純情、憐れみ、恵み、などと訳されている旧約の基礎語句])が示されている。

 ナオミの祈り「あなたたちは死んだ息子にも私にもよく尽くしてくれた。主がそれに報い、あなた方に慈しみを垂れてくださいますように」(1:8)、「生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない主が、その人(ボアズ)を祝福してくださるように」(2:20)に注目したい。

 悲嘆の女性ナオミの祈りを共にする事が、ルツ記を読む事であり「慈しみ」を体現したルツに働く「主」(神)と出会うことであろう。

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