2008.11.12、湘南とつかYMCA “やさしく学ぶ聖書の集い”
「洋画家 小磯良平の聖書のさし絵から聖書を学ぶ」⑩
ルツ記 2:1-23
「落ち穂拾い」と言えば誰もが1858年にフランスのジャン=フランソワ・ミレーによって描かれた作品を思い起こす。(“落穂拾い”)+(“The Sheepfold, Moonlight”)(ミレーの116点)by Google Arts
刈り入れが終わった畑で朝の太陽に照らされ麦の落ち穂を拾い集める3人の貧しい農婦が描かれている。農民画家ミレーはおそらく旧約聖書の故事に心を寄せていたであろう。古代イスラエルの社会法は寄留者・孤児・寡婦に対して落ち穂を拾う権利を認めていた(レビ記 19:9-10、申命記 24:19-22)。
ミレーの故郷北ノルマンディー地方では農地はあまりにも痩せていて落ち穂拾いの光景は見られなかった。肥沃なシャイイ地方に移住して農村社会の助け合いに感銘を受けたのであろうか。彼は「ルツ記」の一場面から「刈り入れ人たちの休息(ルツとボアズ)」を描いている。(サイト記:「刈り入れ人たちの休息」はGoogle Artsにはありませんが、Googleで検索すればご覧になれます)
聖書はアブラハムからダビデに至り、そしてやがてメシアと呼ばれるイエスに繋がる長い系図(新約聖書マタイ 1:1-16)を語る時、「ボアズはルツによってオベドをもうけ」という一句を注意深く入れている。「ルツ」という異邦人女性の名を冠したわずか4章の「短編小説」に似た「ルツ記」が輝く一節である。
19世紀の画家ハイエスは女性像「ルツ」(1835)を描いた。(その他 “フランチェスコ・アイエツ“ by Google Arts)
「左手に落ち穂を持ち、右手で物乞いをするような仕草を見せ、恥辱のため視線を外している。この女性像の中には貧しさ、孤独、運命に対する従順、勤勉、官能など様々な意味合いが込められている」(『聖書の女性たち』馬渕明子 1980 集英社)
小磯さんの「ボアズの畑で落ち穂を拾うルツ」は聖書の美術史に新しい一枚を加えたと言っても過言ではなかろう。
物語は「士師が世を治めていたころ」(1:1)と時代の示唆で始まる4幕ものの劇を思わせるストーリーである。
第1幕。飢饉でユダヤのベツレヘム在住の一人の男エリメレクがモアブに移り住んだ。彼も二人の息子のその地で死んだ。残った妻ナオミ(快い)は、息子たちの異邦人の妻たちに「自分達の里(原文は「母の家」)に帰り再婚することを促す。しかし、嫁の一人ルツは自分の将来の可能性よりも悲惨な寡婦となった義母と運命を共にする決意を固くする。そして姑の苦難の帰国に同伴する。
第2幕。ベツレヘム(「パンの家」の意)には、ナオミの亡き夫エリメレクの有力な親戚ボアズがいて「ゴーエール(家を絶やさないように責任を果たす親族の意。元来は、買い戻す、贖う、の意。レビ記25:23以下)の責任から、この寡婦とその嫁に厚意を寄せ、「落ち穂拾い」を手厚く守る。
第3幕。ナオミはボアズへの接近を試みる。それを受けてルツは大胆に積極的な求婚の行動にまで至る。厚意は好意にまで進展する。
第4幕。思慮深いボアズは「町の門(公の証人)」の法的な手続きを経て、レヴィラート婚(創世記38章、申命記25:5-10)の精神を活かしルツと結婚するという物語である。
小磯さんが描いたのは、この物語ではボアズとルツが図らずも出会う場面である。落ち穂を拾った畑は「たまたまエリメレクの一族ボアズの所有する畑であった」(3)という。ボアズは農夫の監督に「あの若い女は誰の娘か」と聞いた。彼は「モアブの娘」と答えた。この表現はこの書物で7回繰り返される。
荒井英子氏によれば、この表現には異郷の女への「侮辱の響き」があるという(『旧約聖書略解』2001 日本キリスト教団出版局 p.315)。
その日の糧を求めるルツのひたむきさ、老練な監督の主人への忠実さ、ボアズのしたり顔がよく描かれている。遠景には刈り入れに忙しい雇い人達が遠景をなしている。
美術館が保存する小磯さんの下絵は2枚あって、一枚はボアズを中心として、土地の権威者が右手をルツに向けて問いただすような位置にあるが、小磯さんはその構図を用いなかった。むしろここでは物語に余韻を残し、ルツの運命の予感を観る者の想像力に委ねるように、ボアズとルツの距離を残している。
「落ち穂拾い」には幾つかの現代的テーマが含まれている。
「寡婦」の社会的地位とそれを支える社会法というテーマ。
イスラエルの古代ですら機能を果たして運用されていた「落ち穂拾い」ほどの「社会的連帯」の原理は、人間が「競争原理」の「新自由主義」によって貧困のどん底に丸投げされている時代に、どうなっているのか、というテーマ。
異邦人の疎外がいかに克服されるべきか、という現代で言えば多民族共生の課題。
ルツ記の最後(4:18-22)が男系ダビデの系図で締めくくられているように、女性の物語が語られつつも、ルツ記の一定の限界(荒井英子)という問題。
しかし、この書物には通底音のように「主の慈しみ」(ヘブライ語「ヘセッド」《愛、慈しみ、真実、純情、憐れみ、恵み、などと訳されている旧約聖書の基礎語句》)が示されている。
ナオミの祈り「あなた達は死んだ息子にも私にもよく尽くしてくれた。主がそれに報い、あなた方に慈しみを垂れてくださいますように」(1:8)、「生きている人にも死んだ人にも慈しみを惜しまれない主が、その人(ボアズ)を祝福してくださるように」(2:20)に注目したい。
悲嘆の女性ナオミの祈りを共にすることが「ルツ記」を読むことであり、「慈しみ」を体現した女性・ルツと出会うことであろう。
(サイト追記)「YMCA 聖書の集い」の本稿から10年、2018年『聖書の風景』出版、出版後の神戸教会での最後の説教『主の慈しみ』(2018)には「ルツ記」のテキストが選ばれた。
「主の慈しみ」 2018.6.10 神戸教会