イエスの最初の弟子たち(2008 礼拝説教・マルコ)

2008.11.2、明治学院教会(132)降誕前 ⑧

(単立明治学院教会牧師 4年目、健作さん75歳)

マルコ 3:13-19

1.この箇所は、マルコ福音書の著者の編集の言葉(13-15節)と元来の伝承(16-19節)とからなる(「十二人を任命し」という言葉が14節、15節と2回出てくる理由)。

 伝承の引用とはいえ「弟子の選び」という発展的な話の最後を「このユダがイエスを裏切ったのである」(19節)とし、暗い部分を削除しなかったマルコの執筆の意図とは何であったか。

”このユダがイエスを裏切ったのである。”(マルコによる福音書 3:19、新共同訳)

2.マルコを「人の流れ」という視点で初めから読むと、イエスを囲む人々の流れに二つの方向がある。

(1)一つは、人の輪が広がる流れ。1章のシモンとその兄弟アンデレの弟子への選任。2章では「汚れた霊に取り付かれた男のいやし」があって、イエスの評判はガリラヤ地方の隅々にまで広まって、人々が集まってくる。

”ガリラヤから来たおびただしい群衆が従った。また、ユダヤ、エルサレム、イドマヤ、ヨルダンの向こう側、ティルスやシドン辺りからもおびただしい群衆が……集まって来た。”(マルコによる福音書 3:8)

(2)もう一方は、イエスを取り囲む人々の、イエスとの関係が絞り込まれてくる流れ。

”イエスが山に登って、これと思う人々を呼び寄せられ……こうして十二人を任命された。”(マルコ 3:13-16、”山”とは聖なる場所、群衆から離れることを意味する。)

 群衆から弟子へと流れは狭くなる(12は象徴的数字)。

 そこにイエス「引き渡し」(19節)の記述が話を締めくくる。新共同訳「裏切り」(19節)は意訳。支配当局によって逮捕されることを意味する術後で過去を述べる表現。

 弟子が選ばれ、伝道が発展していく中で、イエスの逮捕が暗示されている。

 マルコは、福音書全体を見通して、イエスの受難と死に向かう物語を構想していたと思われる。つまり、ここにマルコ福音書の思想が出ている。以後、イエスへの「弟子の無理解」というテーマがマルコ福音書を貫く。

3.「任命」(14節)という言葉について。

 口語訳は「立てる」、文語訳は「挙げる」。

 原語はたいへん広い意味を持つ言葉”ポイエオー”で、「作る、こしらえる、建てる、原因となる、実を結ぶ、備える、任命する、行う、為す、行動する」。

 英語では”make”,”do”。これは、主語になるものの力を示す言葉。イエスの人間関係の持ち方を意味する。

 最後にイエスを「引き渡す(19節)」「弟子の無理解」を含めて、「任命(16節)」が勧められる。「任命」は「十字架の死」につながってゆく。

 他方、「神の国」は病める人々、貧しくされた人々、抑圧された人々の間に広がってゆく。

 この二つの流れは、二重性を持つ。「弟子の選び」の深い暗示である。弟子は、広がりの「宣教の展開(喜び)」にあずかり、絞り込みの「宣教の孤独」にあずかる。それは宣教の二重性である。

4.福音館書店の松居直さんは「本を作るが、作られた本の半分しか売れない。売れた本の半分しか読まれない。読まれた本の半分しか理解されない。理解された本の半分は誤解されている」という。

 ここには「出版人の喜び」と「出版人の孤独」が同居する。

5.「弟子の選び」の4つの項目(14-15節)。

(1)挙げられること。役目の授与。
(2)イエスの側に置く。訓練。
(3)派遣して宣教させ。言葉による人格関係の働き。
(4)悪霊を追い出す権能。人間性を奪う社会の諸力への戦い。初代の教会の働きが反映されている。

 現代の教会人がイエスに従うこともその本質において変わっていない。

 私たちも、これらの役目を宣教の二重性において自覚しつつ、励んでゆきたい。

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