自分を低くする者(1970)

1970年6月14日 岩国教会週報
「先週説教より」マタイ23:1-12

(岩国教会牧師5年目、健作さん36歳)

 「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」という諺は人間の心理をよく表しています。ある人が自分と肌が合わないとか、好みに合わないということで、その人の語る真理内容まで耳を貸さないということがあります。今日の聖書のテキストでは、イエスはそのような意味の感情的批判で律法学者やパリサイ人をみてはいません。「モーセの座」(2節)をむしろ重くみる故に「彼らがあなたがたに言うことは、みな守って実行しなさい」(3節)と弟子たちに教えています。しかし、律法が伝えようとしている真理は、律法の条文(例えば「汝殺すなかれ」)をただ知っているというようなことではなくて、それを実行しようとするその人の真面目さがどれほど深いかによって、真理として生きてくるものですから、その点、イエスの前にパリサイ人は失格でした。

 律法を真面目さという点から捉えると、どうしても、律法を人間を律する神の審きとして捉える捉え方に落ち込みます。その捉え方の問題点は、律法を図式的に先取りして、それに人間の行動を当てはめてゆくところにあります。そういう真面目さはどこかで破れます。「人に見せるため」(5節)という性格を免れないからです。イエスが「みな守って実行しなさい」という時の真面目さは、そういう真面目さではなく、むしろ図式的な先取りをしないで、律法の根本精神に対して忠実であること、それを活きた目標としているかどうか、ということです。「自分を低くする」(12節)というのは、その目標への忠実さの故の柔軟さではないでしょうか。律法の根本精神は「律法の成就」としての福音に他ならないのですから。

(1970年6月7日 岩国教会 岩井健作)


BOX-1. 岩国教会所蔵史料

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