2009.8.16、明治学院教会(163)聖霊降臨 ⑫
(単立明治学院教会牧師 5年目、健作さん76歳)
申命記 7:6-8、使徒言行録 1:12-26
使徒言行録を一御緒に読んでいます。
1.この文書は「ルカ・使徒」2巻ものの歴史物語です。強烈な神学的主張を持っています。
それは、物事を神の救いの歴史として綴ってみる考え方(救済史観)です。
後々、正統的キリスト教の歴史観の基礎になったものです。だから、よく言えばそれは一つの骨格ですが、悪い意味ではそれが正統主義として作用する時、他の考え方を排除してしまい、自己を相対化して対話を生み出す思想にはなりませんでした。
この両面を注視したいと思います。
2.今日の箇所は「集会の一致」(使徒言行録 1:12-14)「使徒の補充」(15-26)の物語です。
「イエスの昇天」と「聖霊降臨」の間に置かれて、初代教会が活動する前に、決着をつけておかねばならない課題が扱われています。
ペトロの演説の中に組み込まれた「ユダの死」は他の福音書にもあります(マタイ 27:3-10)が、著者は「裏切り者」(ルカ 6:16)の見解をとっています。
ここは伝承を元に著者が構成した物語があり、エルサレム教団最初期の史実を反映するものはありません(荒井献)。
3.「ユダ」ブームが、2006年に『ユダの福音書』の公表で起こりました。
『ユダとは誰か』(荒井献著、 岩波書店 2007.5)によれば、ユダをその「罪」の故に追放したのは正統的教会で、「イエスの十字架はユダを受容した」とまとめられています。
4.「使徒職」は12人でなければならない、とはイスラエルの12部族の考えを継承しています。
「職を継ぐ」ことは神の命令でした。
「その務めは、ほかの人が引き受けるが良い」(使徒言行録 1:20)は詩編109:8のギリシア語訳からの引用です。
”彼の生涯は短くされ、地位は他人に取り上げられ”(詩編 109:8、新共同訳)
生前のイエスと共にいたものの中から、にこだわるのが「使徒言行録」の著者です。
これは「キリストの時」(イエスの宣教活動の期間)と「教会の時」(イエスは天にあり、宣教活動は「教会」の働きに任せられている)との区分をはっきりさせる考え方に由来します。
5.「なるべきです」(使徒言行録 1:22)は「ユダの死、補充の選出」が強い「神の意志、神秘的必然」であるというルカの歴史観の表れです。
二人を選んで、後はくじにより、「神の決定」を重んじます。ヘレニズム・ローマ世界では広くとられた方法です。
使徒職の全体が欠けたのを補うので、個人の資質はここでは問われていません。
「すべての人の心をご存知である主よ」(使徒言行録 1:24)は、2−3世紀の文献のみに確認される神への呼びかけ。
6.使徒職の補欠を主題とする新しいペリコーぺ(聖書日課)の導入は「そのころ」(使徒言行録 1:15)で始まる。
この句が用いられる3箇所は「奉仕(ディアコニア)、援助、教団の”卓”」に関わる。
この語から、執事(deacon:カトリックの”助祭”、新教の”執事”)が出てきました。
もっぱら教会の組織運営の奉仕や治会の仕事を意味します。宣教(御言葉の奉仕)とは区別されました。
7.さて、二つのことを心に留めます。
(1)教会を担う「使徒」を継ぐ役目は個人的資質より、神の選びが大事なこと。
(2)「奉仕(ディアコニア)」は、運動・隊列(組織)の中で「体を使うご奉仕」であること。
教会の歴史には「奉仕の務め」に歩んだ信仰の先達がたくさんいます。
そのような「任務を継いで」ゆきたいと思います。
163-20090816◀️ 2009年 礼拝説教