蒔かれた種は成長する

また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、… (8節)
マルコによる福音書 4章1節-9節

 

1 、このテキストは私の「信仰の原点」の聖書箇所だとかつて申しました。(2014/2/2「種は実を結ぶ」説教要旨、参照)。青年前期(中学、高校)を父岩井文男(賀川豊彦との出会いが原点にある事などは前回述べました)の岐阜県での農村開拓自給伝道を家族の一員として担ってきた時、農作業の織烈さと同時に、自然の豊かさを体験したからです。夏の酷暑のサツマ芋畑の草取や収穫芋の澱粉工場への運び込み、その安値への鷲き共に、「経済二重構造や社会構造(農村と都市)の矛盾など」を体験しました。中・高の友人達が普通の家庭の学校生活を送っているのに比べて、延々と続く雑草との闘いに、結構「ニヒリズム」を味わいました。しかし、また晩秋には麦の種の蒔きつけ、冬の寒風に曝されての麦踏み、収穫時の小麦の粒の感触、製粉され、加工された、うどん、パンなどの豊かな味わいなどは貴重な生活経験として心に残っています。イエスのこの「種蒔きの警え」が、当時養われた感性を受け皿として理解されてきた事は、天与の賜物だと終生思っています。

2 、このテキストで注目したいのは、前回も指摘しましたように、8節の「また」という接続詞(「だがしかし」ではない)です。前半の実を結ばない種と後半の実を結ぶ種が並立関係になって等置されています。両方が現実なのです。神学的にいえば、十字架の死と復活の命が両方共に現実だという事です。青年時代それまでに読んだ近代文学は激石、芥川、大宰が近代的自己に死ぬことに主眼がありましたが、作家椎名麟三は「生と死の二重性」を文学で表現しました。これは椎名が洗礼を受けて、十字架の死と復活の命という真理を彼独特の「ユーモア」を持って表現したからです。

3 、私が1958年以来、日本基督教団教師(教会担任の場合は「牧師」、現在は「隠退教師」 )として宣教・牧会に取り組んできた教会の現実から言えば、教会は「生きている部分」と「死んでいる部分」の二重性を持ちつつ、今も存在し続けています。「生きている部分」というのは、自覚しているかそうでないかを問わず、教会は「命」を証ししているという面です。「教会はキリストの体」という命題を宿しています。しかし現実の教会は「実にくだらない姿」をしています。「あの教会はいろいろ問題をかかえているのよ」なんていう「噂」をしたり顔で語るのを聞いたことがあるでしょう。地上の教会は皆そんな姿を持っています。しかし、驚く事はありません。それにも拘らず「キリストの福音」は「教会」によって宣べ伝えられてきました。信徒も牧師も「教会」によって養われてきました。「見える教会、見えない教会」と古くから神学的に表現もされてきました。「見える教会」を含めて成長があるのです。

4 、この譬の表現では、「また、蒔かれた種は成長する」が教会の姿です。まずは、一人一人つたない者がそこに招かれている事を感謝し、「成長する種」に目を留めて、かつ「福音の前進」(フィリピ 1章12節)を信じ、それゆえに、蒔かれた種である「明治学院教会」の「成長」を確信して参りたいと思います。

於明治学院教会 礼拝メッセージ