麦、福音のしるし(2016 礼拝説教・都民教会)

2016.10.9、東京都民教会 礼拝説教

2004.3.28 川和教会
2005.2.20、鎌倉恩寵教会
2010.8.15、巣鴨ときわ教会
2014.2.2 明治学院教会
2016.3.13、明治学院教会

(日本基督教団教師、83歳)

マルコ 4:1-9

また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。(マルコ 4:8、新共同訳)

1-1.父から受け継いだもの

 父は賀川豊彦の影響を受けて伝道に携わった牧師。戦後、岐阜で農村・開拓・農業自給伝道に従事した。私は中学・高校時代をその農作業を手伝って育った。中々辛いことではあった。生活の収入は、夏は「さつま芋」の生産。値段は工業の労賃に比べて驚くべき安値。「社会」の仕組みがそこにあると社会科の教師に教えられた。

1-2.さつま芋

 後々「社会派」と言われて「差別撤廃・原水爆禁止・護憲・教会の体質改善・戦争責任告白・米軍兵士反戦活動支援・沖縄」などの運動に取り組んで来た根源は「さつま芋」。

1-3.麦の譬え

 一方、裏作(秋・冬)の麦は「一粒の麦は、地に落ちて(も)死ななければ一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ(ヨハネ12:24)」とあるように、イエスの福音の深さをそこに学んだ。故に「種まきの譬え」は信仰の原点。イエスはこの譬えを、 農民や漁民に語った。彼らには「譬え」の受け皿の生活があった。都市の律法学者たちは「律法」に精通してはいても、受け皿になる生活がない。譬の心は理解不能。ここがイエスの挑戦。

2.二つの事を学びたい

2-1.「たとえ」という伝達の方法

 相手の生活経験を肯定し、そこに相手の未知の事柄(神の真理)を並べるという方法。譬のことをギリシャ語では「パラボレー」という。「パラ(並べ て)ボレー(置く)」という意味。イエスは農民や漁民の「生」そのものをありのまま肯定し受 け入れた。そもそも「蒔かれた種に命があり育つという出来事は驚くべきこと」なのである。 私共にも、今の自分の生活の中に、きっと「神の国」を投影する受け皿があるに違いない。「説教」はそれに気付くための「奉仕」だと、私は思っている。私共の経験や生活の断片にはきっと「神の国・福音のしるし」が投影されていると思う。そこに既に「神の恵み」がある。

2-2.「いろいろと教えられた」というところが肝心

 生活経験は様々である。しかしその多様性・個別性が受け入れられている。神の国の真理は「いろいろ」な生活と天秤の秤のように釣り合っている。釣り合っていることを「アナログ」という。「類比」という意味である。これの反対語は「デジタル」(指し示す)である。例えば「神は愛である」を言葉で理解するのは 「デジタル」的・知的理解である。しかし私たちが「人生の苦しい経験も神の試練なのだ」と感じて、その中にも神の導きを覚えるのは「アナログ」的・体験的分かり方である。

 さて、今日読んだこの譬えには、農民の楽天性がある。石地に落ちたりして実を結ばない種があるのは事実。気にしない、気にしない。30倍、60倍、100倍は大げさであるが(創世記 26章12節が下敷きにある)、ばらまき(パレスチナの農法)でも最後に実を結んでいるのも事実。 効率が問題なのではない。この譬えには現代の効率社会への批判が込められていると思う。

 私など、この歳になって省みると、たくさんの非効率・失敗・人に負わせた傷など心のうずき、 「実を結ばなかった種」を覚える。しかし6つの教会で58年の宣教・牧会を振り返れば、「実を結び(マルコ 4:8)」という事実もまた確かなことだと思う。そこには私ならではの恵みを覚える。

 我々一人一人は「蒔かれた麦の種」である。無駄はあるであろう。しかし誰もが漏れることなく「実を結ぶ」恵み、「神の国」の恵みに与っていることをしっかりと覚えたい。

岐阜県加茂郡坂祝町 黒岩1412 日本基督教団 中濃教会

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