麦、福音のしるし

於東京都民教会 礼拝説教

また、ほかの種は良い土地に落ち、芽生え、育って実を結び、あるものは三十倍、あるものは六十倍、あるものは百倍にもなった。」(8節)

マルコ福音書 4章1節-9節

1-1、父から受け継いだもの。

父は賀川豊彦の影響を受けて伝道に携わった牧師。戦後、岐阜で農村・開拓・農業自給伝道に従事した。私は中学・高校時代をその農作業を手伝って育った。中々辛いことではあった。生活の収入は、夏は「さつま芋」の生産。値段は工業の労賃に比べて驚くべき安値。「社会」の仕組みがそこにあると社会科の教師に教えられた。

中濃教会 岐阜県加茂郡坂祝町

1-2、後々、「社会派」と言われて、「差別撤廃」「原水爆禁止」「護憲」「教会の体質改善」「戦争責任告白」「米軍兵士反戦活動支援」「沖縄」などの運動に取り組んで来た根源は「さつま芋」。

1-3、「麦の譬」。

一方、裏作(秋・冬)の麦は「一粒の麦は、地に落ちて(も)死ななければ一粒のままである。だが、死ねば、多くの実を結ぶ」(ヨハネ12:24)とあるように、イエスの福音の深さをそこに学んだ。故に「種まきの譬え」は信仰の原点。イエスは此の譬えを、 農民や漁民に語った。彼らには「譬え」の受け皿の生活があった。都市の律法学者たちは「律法」に精通してはいても、受け皿になる生活がない。譬の心は理解不能。ここがイエスの挑戦。

2、 二つの事を学びたい。

2-1、「たとえ」という伝達の方法。

相手の生活経験を肯定し、そこに相手の未知の事柄(神の真理)を並べるという方法。譬のことをギリシャ語では「パラボレー」という。「パラ(並べ て)ボレー(置く)」という意味。イエスは農民や漁民の「生」そのものをありのまま肯定し受 け入れた。そもそも「蒔かれた種に命があり育つという出来事は驚くべきこと」なのである。 私共にも、今の自分の生活の中に、きっと「神の国」を投影する受け皿があるに違いない。「説教」はそれに気付くための「奉仕」だと、私は思っている。私共の経験や生活の断片にはきっ と「神の国」「福音のしるし」が投影されていると思う。そこに既に「神の恵み」がある。

2-2、「いろいろと教えられた」というところが肝心。

生活経験は様々である。しかしその多様性・個別性が受け入れられている。神の国の真理は、「いろいろ」な生活と天秤の計りのように釣り合っている。釣り合っていることを「アナログ」という。「類比」という意味である。これの反対語は「デジタル」(指し示す)である。例えば「神は愛である」を言葉で理解するのは 「デジタル」的、知的理解である。しかし私たちが「人生の苦しい経験も神の試練なのだ」と感じて、その中にも神の導きを覚えるのは「アナログ」的、体験的分かり方である。

さて、今日読んだこの譬には、農民の楽天性がある。石地に落ちたりして実を結ばない種があるのは事実。気にしない、気にしない。30 倍、60 倍、100 倍は大げさであるが(創世記 26章 12 節が下敷きにある)、ばらまき(パレスチナの農法)でも最後に実を結んでいるのも事実。 効率が問題なのではない。この譬には現代の効率社会への批判が込められていると思う。

私など、この歳になって省みると、沢山の非効率、失敗、人に負わせた傷など心のうずき、 「実を結ばなかった種」を覚える。しかし六つの教会で 58 年の宣教・牧会を振り返れば、「実を結び」(4:8)という事実もまた確かなことだと思う。そこにはわたしならではの恵みを覚える。我々一人一人は「蒔かれた麦の種」である。無駄はあるであろう。しかし誰もが漏れることなく「実を結ぶ」恵み、「神の国」の恵みに与っていることをしっかりと覚えたい。

岐阜県加茂郡坂祝町 黒岩1412 日本基督教団 中濃教会