種を蒔く(2010 礼拝説教・巣鴨)

2010.8.15、巣鴨ときわ教会 礼拝

2004.3.28 川和教会
2005.2.20、鎌倉恩寵教会
2014.2.2 明治学院教会
2016.3.13、明治学院教会
2016.10.9、東京都民教会

(明治学院教会牧師、77歳)

マルコ 4章1節-9節

三つのことをこのテキストから聞き取りたい。

1.“たとえ”で教えられた(2節)ということ

<たとえ>(ギリシア語 ”パラボレー”、パラ[傍らに]ボレー[置く])

 彼岸の真理の傍らに、此岸の聞き手の経験を置く。両者が釣り合っている(アナログは類比・類推、昔の秤、「野の花と神の国」)。

 アナログに対してデジタル(デジットは指し示すという意味、「神は愛である」)がある。

 主体的真理の伝達には限界がある。譬えは聞き手の日常の経験の肯定と受容。

 経験から想像力(イメージ)を呼び醒ます人間の営みの肯定。

 例「一枚の葉っぱ」。

 哲学者・三木清の言葉「利己主義が非情に思われるのは、彼に愛情とか同情とかがないためであるよりも、彼に想像力がないためである」(『人生論ノート』三木清 新潮文庫 p.89)

2.譬えが“農民の日常“、“食料を作る”お話だということ

 言い換えれば、宮廷や神殿の話、戦場の話、伝道活動の話ではないということ。

 ユダヤの国の宗教と政治の実権を握っていた指導者たち、ローマの軍隊への批判が裏には込められている。律法の精通者でも種蒔きの経験のない人に「神の国」のことは分からない。

 初代教会は折角の譬えを「教会の伝道活動」の話にしてしまった(13-20節)。それを踏襲した解釈をする教会とは何か。

 軍人より農民は人間として立派である。沖縄の阿波根昌鴻さんの生き方(『米軍と農民』岩波新書)。

3.死(不条理)と命(芽生え、育つ)の併存と二重性

 種は「死んで生きる」。一粒の麦が「死んで、はじめて実を結ぶこと」はヨハネ12:24にある。ここでは「道端、石地、茨」で無駄になる種の不条理のことが記される。当時の農法の反映。実を結ばない種(死)は常に存在する。たくさんの失敗、痛み、損失、非効率性、拭い得ない影、人に負わせた傷、イエスの十字架の死に引き寄せられる不条理につながる出来事、負いきれない「罪の値としての死」は存在する。

 しかし実を結ぶもの、芽生えて、育って、百倍の収穫に与かることは同時に存在する。(参照:大貫隆、マルコ注解)。

 太平洋戦争下、国民は皆「天皇陛下のために死ぬことが絶対の価値観であった」。死の美学は人間の日常を排除する。

結び

 麦の種蒔き、収穫の日常的経験を、私は青年時代、父親の農村開拓自給伝道の生活で味わった。マルコの4章を読む恵みの素地となった。

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