種は実を結ぶ 川和教会での最後の説教

種は実を結ぶ

2004.3.28 川和教会礼拝説教要旨
川和教会での牧師・代務者としての最後の講壇

マルコ 4:1-9

1、マルコの4章1節以下「種蒔きの譬え話」。
2節の「イエスはたとえでいろいろ教えられた」には二つの要点がある。

1−1、一つは「たとえ」という伝達方法が持っている豊かさ。 
「たとえ」は、相手の経験に訴えて、相手の未知の真理をイメ−ジで伝える伝達の方法。
 言葉の説明を遥かに超えている。

 電車のなかの小学生の女の子の会話。

「あなたのとこのお父さんはどんな人?」
「うちのパパはね、パンダみたいなの」

 これで家庭での親子関係、お父さんの雰囲気が伝わってくる。

 イエスは「神の国」を、説明や論理で教えなかった。
 イエスが教えた人々は、農民であり漁民。種蒔きの経験のある人たちだった。
 彼らにはイエスの「神の国」のメッセージは彼らの生活経験のイメージの豊かさを通して伝わった。しかし、反面、権力を握り、「律法」を通して「神」を語ろうとしたエルサレムの律法学者たちへの痛烈な批判が込められていることも事実だ。

1−2、二つ目は「いろいろと教えられた」という事。
 イエスは聞き手の経験の多様さを肯定する。
「神の国」のイメ−ジと私たちの現実の経験との相関関係を大事にする。
 彼方の真理と我々の経験とを丁度天秤の秤の様に、右と左の釣り合いを認めている。
「譬え」は英語でパラブル。これはパラ(傍らに)ボレー(置く)というギリシャ語から来ている。

 彼方の真理の傍らに、此なたの経験を置くことの釣り合いに「救い」を見ている。

あなたの信仰があなたを救ったのだ」(マルコ5:34他)の言葉の様に「救い」を一点に集中しない。(釣り合うこと=アナログ=類比を、明確な指示=デジタルに凌駕させている)。

2、新約聖書学者・大貫隆氏は、この譬えに農民の「実りを信じてやまない楽天性、非効率的行動」を見ている。

 そこには「人間の効率でものをお考えにならない神」そして「神の国」が比喩としてイメ−ジされている。

3、私は少年の頃から、このたとえ話が大好きだった。
 父親の農村開拓自給伝道の牧師家族としての経験がその根幹にはある。
 広大な自然の中で、農作物を作り、家畜を飼うという生活がもたらした豊かイメ−ジは、私のものの考え方、聖書の理解の仕方、社会の見方などに決定的な影響をもたらした。
 それは、私の人生への神からの「所与の恵み」だと思っている。

 それはまた同時に、「失われた種」が象徴する様に欠けの多い46年にわたる牧師生活の底流を支えた「種は実を結ぶこと」(「神の国」のイメージ)への信でもあった。