種は実を結ぶ(2014 礼拝説教)

2014.2.2、明治学院教会(327)降誕節 ⑥
(配布「聴き手のために」はPDFで掲載)

2004.3.28、川和教会
2005.2.20、鎌倉恩寵教会
2010.8.15、巣鴨ときわ教会
2016.3.13、明治学院教会
2016.10.9、東京都民教会

(明治学院教会牧師、牧師退任1ヶ月前、健作さん80歳)

創世記 1:9-13、マルコ 4:1-9

1.今日は、有名なイエスの「種蒔きの譬え話」からメッセージを聴きとります。

「譬え」(”パラボレー”は傍ら・並べて(パラ)置く、投げ込む(ボレオー)の語意)は、彼方(神)の真理を、こちら(人間)の経験で体得してもらう伝達の方法です。

「種蒔き」の経験がない人には、頭で理解できたとしても、本当に、身体では分かってもらえないでしょう。

 イエスの周りの群衆(オクロス)は、種蒔きの経験のある人達でした。裏を返せば、この譬えはエルサレムの神殿(経済)で生活している学者や祭司には「理解できますか?」という批判を含んでいます。私たちも「種蒔き」の経験をしていません。だから、自分の生活の場、「生きてゆく課題」に「再翻訳」をして、そのメッセージを聴く必要があるでしょう。

 母親や保育者や教師は子供が育つという経験で。医師は患者が育つという経験で。管理者は従業員は育つという経験で。牧師は信者(教会)は育つという経験で。

 また、実際、都市消費生活でも、種を蒔く、育てるという経験は大事でしょう。保育園・幼稚園・学校などでの、花造り、野菜造り、サツマ芋作りなどです。

2.私にとっては、この譬えは「信仰の原点」でもあります。何故かといえば、青年前期「種蒔き」の生活で育ったからです。系譜をたどれば、それは賀川豊彦にあります。父岩井文男が銀行員をやめて農村伝道に携わったのは賀川先生との出会いでした。農村伝道の苦労は「種蒔き」の苦労と「実を結ぶ(収穫)こと」の喜びそのものでした。

「麦作り」は創造の業と恵みの壮大さを、「サツマ芋作り」は社会の矛盾とその変革の課題を教えてくれました。私は、あえて農村教会ではなく、日本では都市の歴史を積んできた教会に招かれたことを自分の召命として、いつの間にか56年間、宣教・牧会に取り組んできました。

 ずーっと抱いていたどん底の課題は、近代日本のキリスト教の「イエスとは乖離した」教条化・観念化した「体質の改善」の課題でした。しかし、余りにも大きな課題で、実を結ばない経験の連続でした。ここ8年は「キリスト教主義学校と教会」という課題を与えられました。皆さんと共に歩みました。最後は下村牧師と共同して「新しい教会像」を提示してみました。しかし道遥かな思いです。

 今日のテキストの譬えで言えば「道端に落ちて、鳥が来て食べてしまった。……石だらけの土の少ない所に落ち……枯れてしまった。茨の中に落ちた……実を結ばなかった。」(マルコ 4-7節)

マルコによる福音書 4章4節-7節、新共同訳
 蒔いている間に、ある種は道端にお市、鳥が来て食べてしまった。ほかの種は、石だらけで土の少ない所に落ち、そこは土が浅いのですぐ芽を出した。しかし、日が昇ると焼けて、根がないために枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ちた。すると茨が伸びて覆いふさいだので、実を結ばなかった。

 というイエスの言葉と重なります。しかしこれは少数の種(単数形)です。8節は「ほかの種は(複数)……」は実を結んだとあります。「福音の前進」の事実です。信仰の力を与えられます。

「また」(カイ)という並行的書き方は「種が実を結ぶ」確かさを、十字架の死と共に復活の喜びを示唆しています。めげずに励みましょう。

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