「現代社会に生きる聖書の言葉」
湘南とつかYMCA ”やさしく学ぶ聖書の集い”
第68回「新約聖書 ヨハネ第一の手紙」⑤
ヨハネ第一の手紙 3章11節-18節
1、右足骨折で病院に入院している問、近くの知り合いの方が、私が車椅子を使って動けるようになる間(売店で新聞が買えるまで)、毎朝ベッドまで「毎日新聞」を届けてくださいました。そこで私は貴重な機会に新聞の読み方を、少し変えてみました。人間が生きていく励ましになる情報、出来事、美しい話を拾うことにしました。意外と沢山の物語に出会いました。世界の点字作文コンクールで最優秀賞になった杉田忠幸さんの「支えられ生かされて」の作文などその一つです(毎日新聞 2013.11.4)。トラック運転手の働き盛りの時、脳の腫瘍で視力を失ったが、娘の言葉に励まされ、退院後、点字を習い、盲導犬を知り、マッサージ師・指圧師の免許をとり、就職し社会に貢献して、感謝して生きる日々を綴ったものでした。生きることの肯定の物語です。
2、「互いに愛し合うこと」を単なる倫理として捉えてしまうと、聖書は倫理や道徳の努力目標の教科書になってしまいます。
「これがあなたがたの初めから聞いている教えだからです」(3:11)は倫理命題ではなくて、「神の出来事の事実」を意味しています。
「初めから聞いている教え」とは、「イエスから既に聞いていて……、神は光であって、神には闇が全くないということです」(1:5)とあるように、「信仰命題」なのです。
3、ヨハネ第一の手紙は「信仰命題」を教義としては語りません。
人間の「生の現実」として把握するように、語るところに特徴があります。
今まで学んできたことを整理してみてください。
①「知識より経験が大事」
②「罪とは(神との)関係の喪失」
③「知ることではなくて行動すること」
④「初めから存在なさる方 – 神とは「関係性」である – 」
この手紙が「初めからあったもの」(1:1)という時、「神の愛」という事柄は、事柄の順序としては、人間の認識や知識を超えるもので、「関係そのもの(真理契機)」であるのだが、関係そのものを第一義的な論議の対象とはしない、という方法を取ります。
「方法的懐疑を通じて哲学の第一原理として<我思う、故に我あり>の命題に到達した」(広辞苑)近代哲学の祖、フランスのデカルト(1596-1650)の系譜の思考に慣れている近代人にとっては、ここがまず第一の蹟きになります。
4、問題はすでに経験されているが、深くは自覚されてはいない事柄の中に、「その関係を如何に具体的に把握(体験、認識)するか(体得契機)」から逆に思考することを際立たせているのがヨハネ文書です。
こちら側(人間の側)の問題を、それ自体としてではなく、「関係の問題」として把握しようとします。具体的にテキストの言葉を再度引用すると以下はそのことを示しています。
わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。
ヨハネ第一の手紙 4:10
神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。
ヨハネ第一 の手紙 4:16
ここでは「真理契機」の優先性が語られています。しかしそれは「体得契機」の逆説的優先性を媒介しているがゆえのことなのです。この、逆説的優先性をのべているのが4章11節から18節の箇所です。
5、「愛し合う」ことは倫理命題としては、「出来ない」「挫折」「絶望」「不可能」を通過しますが、信仰命題としては「生かされている」「愛の現実を体験している」 という事になります。
愛する者たち、わたしがあなたがたに書いているのは、新しい掟ではなく、あなたがたが初めから受けていた古い掟です。…しかし、わたしは新しい掟として書いています。…闇が去って、既にまことの光が輝いているからです。
ヨハネ第一の手紙 2:7-8
ヨハネの手紙での旧約からの引用の唯一が「カインの弟殺し」(創世記 4:1)です。
愛の対極は人殺し、富の独占は神の愛に反する、口先だけでは愛はない、といったこの世の闇の現実としてこの段落では述べられています。
イエスが命を捨てたこと(ヨハネ福音書 10:11 羊のために命を捨てる羊飼い。ヨハネ福音書 3:16 独り子をお与えになる神の愛)を根拠にする時、世の闇が現実であると同時に「愛」は先行する出来事として「事実」なのです。互いに愛し合うことは「ベき」ことであると同時に「出来る」ことなのです。
子たちよ、言葉や口先だけではなく、行いをもって誠実に愛し合おう
ヨハネ第一の手紙 3:18
は、呼び掛ける主体(イエス)のある促し(新しい教え)なのです。少なくともキリスト教を倫理として捉えることからは解放されたい。