自分の罪を公に言い表すなら – 聖書の「罪」とは何か(2013 ヨハネ第一 ②)

2013.9.25「現代社会に生きる聖書の言葉」
湘南とつかYMCA ”やさしく学ぶ聖書の集い”

第65回「新約聖書 ヨハネ第一の手紙」②
ヨハネ第一の手紙 1章5節-10節

わたしたちがイエスから既に聞いていて、あなたがたに伝える知らせとは、神は光であり、神には闇が全くないということです。わたしたちが、神との交わりを持っていると言いながら、闇の中を歩むなら、それはうそをついているのであり、真理を行なってはいません。しかし、神が光の中におられるように、わたしたちが光の中を歩むなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血によってあらゆる罪から清められます。自分に罪がないと言うなら、自らを欺いており、真理はわたしたちの内にはありません。自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にはありません。

ヨハネ第一の手紙 1章5節-10節

 1970年初め、ベトナム戦争が激しい時代、米軍岩国基地に「反戦米兵」が活動した。岩国教会牧師だった私は、請われて彼らの支援活動をした。例えば、彼らは戦闘機の整備を「飛べないように」整備したという。直ちに逮捕、営倉、起訴、裁判、有罪、除隊後の不利益を被る。国の法では「罪」であるが、彼らは晴れ晴れして「罪」の意識などなかった。何故か。彼らの行いは戦渦にさらされているベトナムの民衆、しかも弱者の農民、女性、子供に開かれて通じていたからである。爆撃が何に対して成されていたかの情報から、彼らは彼の地の人間を想像していた。彼らには人間関係が閉ざされているか、開かれているかが「罪」の基準であって、「法」「社会の規範」「道徳」などが基準ではなかった。厳しい軍隊機構の中で、兵士が兵士より前に人間として行動するなどとは、奇跡としか思えない驚くべき出来事であった。彼らは家庭での母親や小さい時に行った日曜学校で「開かれた関係」の感覚を身につけたに違いない。彼らとの交わりは私にとって閉塞した時代に希望であった。彼らはきっとどこかで気がつかないうちに、「関係の閉塞」こそが「罪」であると説かれた聖書の思想を身に付けていたに違いないと思った。

 聖書では「罪」を「hamarutia ハ・マルチア」という語で表現する。「マルティア」は「的」、「ハ」は外れているという意味。つまり「的外れ」のことを意味する。端的に「神との関係の喪失」。そこから来る人間の自己完結性(自分本位、自分中心)、「共に」という繋がりの否定、相互主体性の否定などを意味する。

 今日の聖書の10節「罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にはありません」とあるが、ヨハネの著者が論敵とした「偽教師・グノーシス主義者」は、多分神への悟り、覚知(グノーシス)を抱いて、そのパッケージされた知識、思想を人々に伝達していたに違いなかった。彼らは「神は光である」(ヨハネでは「神は愛である」(4:8,16)、「神は霊である」(4:24)との表現と本質的に同じ)という定義に満足し、そこに思考を預け、埋没させて、自分の決断の問題とはしなかった。著者の訴えは、定義ではなく、人間にとっての意味を告げる言葉であった。

 「光」は救いの表現であり、終末論的な希望なのである。「光」は人間が「観照(知恵をもって事物の実相をとらえること)」によって所有できないもの、所属性ではなくて、人間実存の在り方なのである。

 「光は神である」という逆表現は成り立たない。「偽教師」は「光」に神を見ている。知識においては「光」にいると言いながら、実際は「互いに交わり」(1:7) を持たない在り方をしている現実があったと思われる。「光の中を歩むなら互いに交わりをもち」という関連を生きていなかったのである。

 ヨハネは信仰者の途上性を説いている。神の前に、完成者として立つことではなく、赦しにすがる他ない生き方を提示している。高橋哲哉 『犠牲のシステム 福島・沖縄』が説くように、犠牲の上に成り立っている本土の在り方を「罪」(関係の喪失)として自覚して生きる時、聖書の言葉は現実味を帯びる。