神の言葉を守るなら –「知ること」ではなく「行動すること」(2013 ヨハネの手紙一 ③)

2013.10.9、湘南とつかYMCA “やさしく学ぶ聖書の集い”
「現代社会に生きる聖書の言葉」第66回、「ヨハネ第一の手紙」③

1 、「ドアを開けて玄関の右上のスイッチを入れれば電燈は灯ります」。昔、夏の暑い時、ご好意で山の別荘で過ごさせていただいたことがある。別荘に到着して、玄関を開けて、スイッチを入れたが電燈は点かない。「もしや停電では」。山の一軒家で夜の暗さのなか闇に襲われたような経験だった。「落ち着け、玄関の右上と聞いたよな」。懐中電燈で照らして見ると、天井近くに引き込み線の開閉機があった。僕の入れたスイッチは、その下の(玄関から入ると上には違いなかった)スイッチだった。開閉機のスイッチを入れると部屋は明るくなった。この経験は僕にはヨハネ書簡を思い起させた。

1 わたしの子たちよ、これらのことを書くのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。たとえ罪を犯しても、御父のもとに弁護者、正しい方、イエス・キリストがおられます。2 この方こそ、わたしたちの罪、いや、わたしたちの罪ばかりでなく、全世界の罪を償ういけにえです。3 わたしたちは神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります。4 「神を知っている」と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人の内には真理はありません。5 しかし、神の言葉を守るなら、まことにその人の内には神の愛が実現しています。これによって、わたしが神の内にいることが分かります。

ヨハネの手紙第一 2:1-5

2、3節「神の掟を守るなら、それによって、神を知っていることが分かります」≒ スイッチを入れるなら、それによって、電気が来ている事が分かります。スイッチの入れ方が間違っていると、あたかも電気が来ていないような暗闇におかれる。

ヨハネ書簡の著者は、4節「『神を知っている』と言いながら、神の掟を守らない者は、偽り者で、その人のうちに真理はありません」≒「電気については十分な知識は持っている、しかし、スイッチを入れて電気を有効に使おうとはしない、その人にとって電気(真理)は役立たずである」と言いたいのである。

3 、2節は、すでに教会の出来上がっていた教義がのべられている。「イエス・キリストはその死をもって罪をあがない全世界の罪を償ういけにえとなった」という思想である。しかし 1節「イエス・キリストが神のもとで我々の罪の執り成し手(弁護者)であるから、我々は罪を犯さないようにするのだ」、ここにはいろいろな理解があるが、ヨハネは当時人々が信じていた教義を用いて、神の存在の事実性を言っている。

いずれにせよ、5節の「神がわたしたちのうちにいる」は「神の関係性、神の啓示」のことを言っている。つまり、神の出来事について、真理契機としての「神」はどのように表現しようと、

「わたしある。わたしはあるという者だ」

出エジプト記3:14

のあの有名な言葉としてしか、表現しようのない真理であることを言っている。

ヨハネは「神は愛である」(ヨハネ第一 4:16)、「神は霊である」(ヨハネ福音書 4:24)などと表現している。しかし、ヨハネがここで問題にしているのは「体得契機」の方である。「神の言葉を守る」つまり神の掟(2:8)を守ること、「互いに愛すること」(4:7)が、体得契機になるので、これ抜きでは、「神についての知識」は抽象的詭弁になることを警告しているのである。

「信仰と倫理」「教理と戒め」「言葉と行動」「理論と実践」の相互関係全体の把握、体得、実行、経験を生きることが宗教である。キリスト教は特に歴史を大事にする。イエスの生涯、振る舞い、言葉に「神」を見る。イエスに従うことなしに「神」を論じることはない。

公害の原点と闘った田中正造が見直されている。たまたま楢戸健次郎(千葉医大卒、北海道新冠国保病院勤務、岩見沢市美流渡診療所開設、元日本キリスト教海外医療協力会(JOCS) ネパール派遣ワーカー。 一人 NGO「クロス」としてネパールで活動)。絵本『1ルピーの贈りもの』が描く、ネパールの貧しい子供達が皆助け合って生きている世界を、自ら実践に生きている人である。

聖書の集いインデックス

▶️ 健作さんの「ヨハネの手紙一」

▶️ 初めから存在なさる方 − 神とは「関係性」である(2014 ヨハネ第一 ④)

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