教会は生きている(2013 礼拝・代読メッセージ)

コロサイの信徒への手紙 1:24-29

2013.10.20、明治学院教会 礼拝
(足の骨折で入院中、礼拝で代読された)
(サイト用に一部編集)

(明治学院教会牧師、健作さん80歳、鎌倉の病院でノートパソコンにて)

 みなさん、今日は、離れているので一層親しみを込めてご挨拶をいたします。

 今朝、私がこの講壇に立つことが出来なくて、神様と会衆の皆様に深くお詫びをいたします。

 それは何故かという経緯を簡単にお話しておいた方が良いと思いますので、まず、そのことを申し述べさせていただきます。

 実は10月17日木曜日午後、用事で鎌倉市内をバイクで走行中でした。ポケットに入れておいた書類の入れ方が浅かったので途中でそれを落としてしまいました。気がついてバイクをユーターンさせたら前輪が反対側の歩道の縁石の端に斜めに当たり前輪が滑ってバイクが右に転倒し右足をバイクと縁石の間に挟みました。足を抜き出してバイクを起こし戻って落し物を拾い用事は済ませ家に戻りました。足首が流石に痛むので、整形外科に溢子に連れて行ってもらいレントゲンで診察を受けたら、右足の関節の外側が骨折しているとのことで、大船中央病院を紹介されました。翌日、同病院を訪れたところ、治療は手術しか選択肢がないとのこと、持病の糖尿病のことを考えて即日入院ということになりました。手術は10月25日(金)の予定ですが、持病のコントロール、松葉杖の訓練がそれまでのすべきことだそうです。入院は約1カ月とのことです。入院第一日は新しいことの連続で、いろいろなことを経験しました。今は起こった出来事、いや起こしてしまった出来事全体を受け止めて前へと進んでいます。もちろん、反省などはたくさんありますが、新たに経験している一つ一つの事柄に神の御心を探りつつ歩んでいます。

 さて、今日は「教会は生きている」という題をつけました。これには、先週ちょっとしたサジェスチョンを与えられてつけたのですが、下村牧師がこの題について題そのものに力強いものを感じる、そこで得たものを次の学生への講義で伝えてゆきたい、とメールを下さったものですから、逆にプレッシャーになってまとまった準備を週末に追いこんだら、とんだ予定違いになってしまいました。

 この題には、二つの焦点があります。

 一つは、私が今まで出会ってきたいくつかの教会、また長年の間に応援に行かせていただいた教会の生き生きとしたイメージがあります。もう一つは、今日のコロサイの信徒への手紙の1章24節以下の言葉があります。

 今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。(コロサイの信徒への手紙 1:24、新共同訳)

 まず第一のことですが、今まで出会った、日本の地方の小さな教会のイメージを思い浮かばせるきっかけの文書があります。これは皆様に是非ご紹介申し上げたい文書です。

 先々週、私のところに「神奈川地区婦人会報」第105号が、この委員会の文書委員長の横浜港南台教会の成島久美さんから送られてきました。この「婦人会報」にはいつも隅々まで読んで読後感を送っているのですが、今回の号は実によく出来ていました。神奈川教区の生き生きした様子がよく分かるものでした。特にその中の、教区婦人会の講演記録には大変感銘を受けました。「家庭医、ネパール」という楢戸(ならと)健次郎さんというお医者さんの講演です。

 彼は、千葉大学医学部を出たあと、北海道の大きな病院で勤務し、その後やはり医療は地域の住民に密着した診療所が大切だ、ということで、北海道の岩見沢市で診療所を開設し、その後、JOCS(日本キリスト教海外医療協力会)からネパールに派遣医として働き、今は日本で家庭医として札幌で診療所をやりながらNGO「クロス」を立ち上げ、ネパールの医療をネパール人が推進してゆくことを応援しています。

 彼は、大学の医学部や病院は「研究と教育」を行う第三次医療機関だといいます。一方で、プライマリーケア一(基本的な、中心の、初めのという意味)としての「外来と往診、地域医療」を主な仕事にする、家庭医の役割に注目しています。

 そして、家庭医の役割を5つあげます。
① 近いこと
② 何でもよくやること(コンプリヘンシブ)
③ 患者の持ってくる問題の9割は応えられるよう訓練されていることと「コーディネイト力」(専門医との連携)
④ 連続性。代々医師であるとかグループで繋げていることです。
⑤ アカウンタビリティー。患者さんや家族への説明と同意。つまり相談をするということです。

その実践などたくさん記されているのですが、ネパールではまずその家庭医が必要だろうと、NGO(市民による海外医療協力)を立ち上げて応援しているのです。

 私はこの話を読みながら、キリスト教のことに示唆(サジェスチョン)を与えられました。

 神学校や大学のキリスト教は「研究と教育」です。都市の大教会は入院設備のある一般病院です。そして、地域に密着した家庭医のようなものが、街のあるいは田舎の教会です。

 私の先輩であり友人である杉原助牧師が、岩国の小さな教会から広島の大きな教会に移ったとき、家庭医から病院勤務医のように、働きの役割が違う、ということを言っていました。都市教会は黙っていても人が集まってくる、しかし、田舎のあるいは地方都市の教会は何から何まで担っているということを雑誌に書いて「田舎の教会に学べ」ということを言っていました。

 気がついてみたら、私が今まで招かれた呉山手・岩国然り、また応援に行った地方の教会はみな家庭医のような教会でした。日向新生教会、大宮共立教会、六甲北教会、大泉教会、溝ノ口教会。小さな教会ですが、教会が「いきいき」していました。

 そうして第二番目のこと。コロサイの今日のテキストは、コロサイの教会を導いてきた牧会者・伝道者の自己紹介です。コロサイの信徒への手紙の著者がパウロではなくて、パウロの後継者だというのは今日の聖書学の多くの人の意見です。

 この指導者は結構苦労しているのです。いろいろ苦しんでいることがあったのでしょう。しかし、その苦労や苦しみをイエスの十字架に結びつけ、「キリストの苦しみ」と名付けています。

 教会という共同体の形成のための苦しみだと言っています。

 今やわたしは、あなたがたのために苦しむことを喜びとし、キリストの体である教会のために、キリストの苦しみの欠けたところを身をもって満たしています。(コロサイの信徒への手紙 1:24、新共同訳)

「あなたがたのために苦しむことを喜びとして」と言っていますし「キリストの体である教会のため」と言っています。

 ここのところで注意すべきことは、いや「コロサイ」の独得な言葉は、「満たす」と訳されている言葉です。英語でいうとコンプリメント(補う)ということです。

 分かりやすくいえば「キリストの十字架の苦しみを自分の体験で後づけていく」ということでしょう。

 私はこの個所を読むと、とてもこのコロサイの牧会者のように言うことはできません。

 しかし、日本の宣教は、キリスト信者をたくさん作ってキリスト教が勢力を増すことではありません。

 数は少なくとも聖書をほんとうに一人一人が読んで、聖書の価値観が一人一人の人間を変えていくように労苦することです。

 このように日本の宣教を考えるとき、29節を読むと

 このために、わたしは労苦しており、わたしの内に力強く働く、キリストの力によって闘っています。(コロサイの信徒への手紙 1:29、新共同訳)

とありますが、私もそのように苦労し、キリストの力によって闘っていることの重みの中に置かれているということを喜びとしたい、と思っています。

 そのような意味で、皆様も自信と喜びをもって教会の生きた働きにますます参加して下さることを祈っています。

 祈ります。

 神さま、思わぬ出来事で礼拝を一緒に守れませんでしたが、与えられていた聖書からキリストの苦しみにあずかることが喜びであることを学びました。

 一人一人を力づけて、下村牧師を中心に教会の営みに励んでゆくことができるよう、お導き下さい。この祈りをそれぞれの心の祈りに合わせて、主のみ名によって捧げます。

アーメン。

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(2000 神戸教會々報 ・パイプオルガン完成の3ヶ月前)

教会は生きている − 住宅街と寿地区の狭間での教会論
(2009 北村慈郎著『自立と共生の場としての教会』書評)

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