教会は生きている − 先にいる者が後になる(2000 神戸教會々報 ・パイプオルガン完成の3ヶ月前)

しかし、先にいる多くの者が後になり、後にいる多くの者が先になる。(マルコ 10:31、新共同訳)

神戸教會々報 No.160 所収、2000.12.24

(健作さん67歳、パイプオルガン工事中、牧師退任まで残り1年3ヶ月)

 教会の働きを、単純に二点で捉えよ、との問いに答えるならば、

「神の言葉を聴くこと」と「執り成しの祈りをすること」だと言える。

 絶えず魂を砕かれつつ謙虚に、そして他者に執り成しの関わりで繋がること。

 聖書の言葉はこれを「キリストの苦しみの欠けたところを、身をもって満たす」(コロサイ 1:24)と言っている。味わい深い言葉である。

 教会は絶えず、あのパウロの第一コリント1:29「誰一人神の前に誇ることがないように」を思い起こさねばならない。

「後にいる者が先になり、先にいる者が後になる」と福音書記者が繰り返して語る(マタイ19:30, 20:16、マルコ10:31、ルカ13:30)のは、当時、教会が「先なる者」の存在に手を焼いていたに違いない。

 だが、この句は、「後なる者」への恵みとして聴かれた時、真価を発揮する。

 ぶどう園の労働者の譬と共にある言葉だ。頭や口ではなく存在で「後なる者」でありたい。

 2000年度の教会総会決議に従い、1月から主日礼拝の公用讃美歌集に『讃美歌21』が用いられる。長年の祈りであったパイプオルガンが礼拝で用いられるのと時を同じくする事なので、画期的変化の年となる。

『讃美歌21』は7部に分類されている。1から4は礼拝を、6と7は生活(宣教)を表す歌が集められている。5は教会の歌で、前者と後者を繋いでいる。各セクションの第1曲は、項目全体の性格を明確にする讃美歌が置かれているという。580曲中398曲が礼拝の歌。そのうち59曲は讃美歌の源流の「詩編」から選ばれている。礼拝に強調を置いた歌集である。ここのところに心したい。

 そして、礼拝と生活を繋ぐ「教会」の冒頭の歌は教会の姿を「神はわれらの叫びを聞き、涙にかえて歌をたまわん」と歌っている。

 神戸教会員・吉田信(1904-1988)氏がNHK音楽部長に就任したのは太平洋戦争最中1943年だった。その頃、ラジオの「希望音楽会」ではクラシックと歌謡曲の2本立ての放送を聴取者のハガキによる希望を基に行っていた。戦後、彼は書いている。

「ラジオの民主化は、マイクロフォンを大衆に開放するのが一番の近道と考えて、(昭和)21年1月19日の正午から”素人のど自慢音楽会”に出演したい人のテストを行う旨を、局報としてラジオで流しました。当日は900人の応募者が……行列を作っていました」と。

 上意下達の国の音楽報国政策の片隅には戦中戦後連続的に、聞き手と作り手の相互交通が残っていたことが窺われる。彼は、自らの音楽素養は、頌栄幼稚園時代に受けた、A.Lハウ宣教師の音楽教育や神戸教会日曜学校で讃美歌を歌った事に負う、と述懐している。民主的感覚をも含めて教会は音楽に宿された宣教の働きを生み出してきている。

『近代日本と神戸教会』の「音楽文化の殿堂」というページ(p.114)によれば、神戸教会に聖歌隊が生まれたのは1904(大正6)年。その頃、宣教師の感化で一般にも水準の高い合唱活動が起こっていた。その頃、教会の各団体の主催による「慈善音楽会」が頻繁に開かれている。

 1904年に「パイプ飾り付きオルガン」が導入された。最近そのオルガンについて、珍しい記事を見つけた。

「私は神戸で育ちました。自宅のすぐ近くに神戸組合教会がありまして、小学校4年生頃から日曜学校に通い始めました。そこにはパイプがずらりと並べてあるリード・オルガンがありまして、それをよく弾いてみたり、また、私は声が大きかったので、祝会などでよく歌わされたりしました」

 これは、辻壮一(つじしょういち、1895-1987)氏の文章だ。(「礼拝と音楽」No.53)。氏は、宗教音楽研究者、立教大、国立音大教授。『バッハ』『キリスト教音楽の研究』など名高い著作があり、聖公会信徒。聖歌隊の指導、オルガニストとして、地味に礼拝に仕えた、と目白聖公会・小笠原司祭は追悼を語っている(同No.54)。

 教会の歴史の中でこのような音楽文化に現れた働きを見ることは力づけられる。そして、そのような働きを生み出した背後には、多くの祈りと、地味な奉仕で教会の働きの土台になった人たちが居たに違いない。土台というものは目立たない。吉田さんや辻さんを育てて、日曜学校に奉仕をした教師の名は残っていない。

 しかし、彼ら彼女らの系譜が教会を形作ってきたのではないか、と深く思う。

(サイト記)この号に掲載された「神戸教会パイプ・オルガン関連年表」を以下に添付する。

「最初のオルガン献金」は1981年に始まる。健作さんが着任して3年目のことである。2001年の完成までに実に20年間にわたる祈りと献金が積み重ねられてきたことになる。健作さんの言葉を借りれば神戸教会や付属幼稚園の130年に渡る「音楽文化の系譜」があってこその事業ということだろう。

 驚いたのは、阪神大震災から1ヶ月という段階での2000万+1000万の匿名オルガン献金。会堂の補修工事、地域への奉仕、倒壊した近隣教会、余震の不安の中で、パイプオルガンが神戸市民の慰さめになる日が来ると確信した教会員の応答であったのだろうか。
 しかし、神戸教会のパイプオルガン導入という一大事業の完成を前にして、健作さんは努めて謙虚であろうしている。パイプオルガンは震災復興活動の中で「教会は生きている」という証しのひとつではあるが、「誇るな」との自戒を忘れていない。無名の者や被災者こそが先になるという「逆説」であろうか。

 震災から6年、パイプオルガン完成まで残り3ヶ月(オルガン献金開始から20年)、牧師退任まで残り1年3ヶ月の時点でのテキスト。

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