2013.9.29、明治学院教会(321)聖霊降臨節 ⑳
(配布「聴き手のために」はPDFで掲載)
(明治学院教会牧師、健作さん80歳)
サム上 7:2-6、コロサイ 1:9-12
「そして、神の栄光の力に従い、あらゆる力によって強められ、どんなことにも根気強く耐え忍ぶように。喜びをもって」(コロサイの信徒への手紙 1:11、新共同訳)
1.今日の聖書箇所、冒頭の「こういうわけで」(コロサイ 1:9)は、コロサイの街にキリストの福音が伝えられて、教会が誕生し、実を結んで成長している様を言う(1:1-8参照)。
2.時代を超えてどの教会も「神の働き」と「人々の応答」という二極に彩られて歴史を刻む。
『塩尻アイオナ教会の50年』という記念冊子の寄贈を横田幸子牧師から受けた。信州松本地区の開拓教会が、何故アイオナなのか。
現代社会の諸問題を担って礼拝と奉仕の教会革新運動に取り組んだスコットランドのアイオナ運動に因んで名付けられたと言う。地域の教育(幼稚園)、平和運動(ピースネット塩尻)、個々人の証し、献身者の働き、など豊かな50年の歩みが記されている。
「世界中至るところでそうであるように、あなたがたのところでも、神の恵みを聞いて真に悟った日から、実を結んで成長しています」(コロサイ 1:6、新共同訳)
これはコロサイ教会の姿であるが、アイオナに重ねても遜色はない。
3.この箇所の二つの言葉に注目したい。「聞く(アクーオー)」と「悟る(エピグノスコー)」。
「聞く」とは、聞いた主体が変わること。イエスの振る舞い・言葉、そして死に至る生涯、十字架の死を終わりとしないで「復活の信仰」として出来事全体を告白し、人生をこの出来事への「決断の問題」として捉えたことを意味する。
4.「悟る」とはどういうことか。
「決断」に対して「持続の問題」である。「悟る」はコロサイのキーワード、鍵語。
新約聖書には20回出てくるが、パウロは5回用いている(ロマ1:28・3:20・10:2、フィリピ 1:9、フィレモン 6)。
旧約的な意味で「神の意志を認知する」という用い方である。パウロ後の文書(第二パウロ、コロサイを含む)では15回使われている。
9-10節では「悟り、深く知る」と訳される。この語の名詞形「認識(エピグノーシス)」は「神の意志に対する然るべき認識を行動によって確認する」(『釈義辞典』p.54)とあるように行動による把握・体得を意味する。
コロサイの街は哲学の盛んな町。それなりに日頃の生活の知識・知恵はこの哲学と結び付いて考えられていた。しかしそれは頭の知識にとどまった。
「コロサイ」では行動知・経験知であるように勧められている。著者はそのための執り成しを祈っている。「行動知・経験知」とは何か。「犬も歩けば棒にあたる」(現今は特に良い悪いを意味しないと解釈される。『ことわざの知恵』岩波新書)というように、未知の経験をも恐れずに、深く知ることへの開かれた心をもって積極的に取り組むことを意味する。
「経験のなかに」神の意思を読む希望を持つ生き方を言う。だから「根気強く耐え忍ぶように」と祈られている。「根気強く耐える」ことは将来に開かれている(関連テキスト:ガラテヤ6:9、テサロニケⅡ 3:13、ローマ 5:4)。
5.先週、藤沢で自主上映映画「渡されたバトン、さよなら原発」を観た。新潟・巻町で住民投票を実現し34年かかって原発建設を完全に阻止したという実話の映画化。原発推進の時代に実に「根気強く」「いのち」を実現してゆく道すじを示した作品であった。
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