神は愛なり – だがヨハネの愛は壁の中で消える(2014 ヨハネの手紙一 ⑥)

「現代社会に生きる聖書の言葉」
湘南とつかYMCA ”やさしく学ぶ聖書の集い”

第69回「新約聖書 ヨハネ第一の手紙」⑥
ヨハネ第一の手紙 4章7節-12節

1、「愛」を意味する言葉がギリシャ語には三つある。
・エロース(性的、憧憬、新約では用いない)
・フィリア、フィレオー(友愛、人類愛、新約では名詞1回、動詞25回)
・アガペー、アガパオー(神の愛、相手を生かす愛、神的体験内容の表現、名詞117回、動詞136回)。
「アガペー」が最も多く用いられているのはヨハネ文書である。第一の手紙 4章7-12節の短い箇所に、名詞7回、動詞8回が用いられている。ヨハネの「愛」の特徴は主として教会の交わりを示していることである。兄弟(3:17) は教会内のこと。

2、シュタウファー(新約聖書学者)の主張によれば、ヨハネ教団においては、イエスが説いた隣人への愛は問題にされなくなり、キリスト教徒、信仰の仲間に対象を限定する愛が関心事になっている。

「世も世にあるものも、愛してはいけません」(2:15)。
(世にあるものに執着してはいけない、という意味で、愛は消極的に語られるが、これは当時のユダヤ教の一派、エッセネ派のクムラン教団の宗規の精神である。彼らは厳格な規律の中で生活を営み、終末を待望して、クムラン文書を生み出した。後世、死海の近くの洞窟でその文書が発見され、一躍有名になった)

イエスは、エッセネ派のその壁を突破した。

あなたがたも聞いている通り、『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。

マタイ福音書 5:43-44


この言葉はクムラン教団の精神に対するイエスの「否(いな)」であり、徹底的な否定であった。

3、イエスの敵への愛をよく示す物語は、ルカ福音書15章の「よきサマリヤ人の話」において示されている。ユダヤ人とサマリヤ人は民族的に敵対していた。エルサレムからエリコへの山道で一人のユダヤ人が強盗に襲われた。彼は道端に放り出された。そこを通り掛かった祭司は道の向こう側を通っていった。レビ人(神殿で働く人)も同じようにした。ところが旅をしていたサマリヤ人がその人を憐れに思い、傷に油とブドウ酒を注ぎ、自分のロバに乗せ、宿屋に連れていって介抱した。翌日になるとデナリオン銀貨2枚を払い宿屋の主人に介抱を頼んで、もっと費用が掛かったら帰りがけに払うと言った。3人の内、隣人になったのは普段敵対していたサマリヤ人であったという話である。

4、「愛」とは他人のために存在すること。敵への愛は、敵のために存在することであり、心が憎しみに勝つことである。それが、奇跡であること、神の奇跡であることをイエスは知っていた。

 しかし、ヨハネ教団の愛はクムラン教団と同じく「共同体の外部と境界で急に消え失せる」(シュタウファー)。ヨハネ文書の勧める愛は、壁の中で消えてしまうのである。

確かにヨハネ教団は、愛が、神の出来事に根拠をおくことを徹底して顕(あらわ)にした点では、優れている。愛を単なるヒューマニズム(人間の善意)に根拠づけることをしなかった。愛が、神の「独り子を与える」愛に根拠をおくという構造、愛は神への応答である点を明らかにした文書としてヨハネは優れている。しかし、愛の広がり、歴史性(例えば、何故敵になったのか)に目を注がなかったために、再び愛を抽象化してしまった。

5、現代的な意味で聖書の「愛」を学ぶ時、ヨハネ教団の「愛」の限界を知っておかないと、「愛」を現代の生活と乖離させてしまう「抽象化」を引き起こす。それはまた、宗教を社会の一定の役割の部分にしてしまう理由でもある。その意味で、ヨハネの手紙はイエスの振る舞い、その言行と並行して読まれるべき文書である。

聖書の集いインデックス

▶️ 健作さんの「ヨハネの手紙一」



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