複眼の教会(2016 広島流川教会130周年・礼拝説教)

フィリピの信徒への手紙 1:12、4:8-9

2016.5.8、広島流川教会 創立130周年 礼拝説教

関連:複眼の教会(2013.6.16 大泉教会・東京都練馬区)

(日本基督教団隠退教師、健作さん82歳)

兄弟たち、わたしの身に起こったことが、かえって福音の前進に役立ったと知ってほしい。(フィリピの信徒への手紙 1:12、新共同訳)

終わりに、兄弟たち、すべて真実なこと、すべて気高いこと、すべて正しいこと、すべて清いこと、すべて愛すべきこと、すべて名誉なことを、また、徳や称賛に値することがあれば、それを心に留めなさい。わたしから学んだこと、受けたこと、わたしについて聞いたこと、見たことを実行しなさい。そうすれば、平和の神はあなたがたと共におられます。(フィリピの信徒への手紙 4:8-9、新共同訳)

 広島流川教会130周年をお慶びいたします。

 私が、向井先生から今日の礼拝説教に委託された事が二つあります。

 一つは、私がこの教会の伝道師であった時代の事を語るという事です。創立130年の歴史の一こまの証人のお役目です。

 もう一つ、お手紙をそのまま引用すれば「平和問題等、わたしたちの教会の今後の歩みに関する事柄」となっています。 

1.第一の事柄は、思い出の話になりますが、お許し下さい。

 私が、この教会に伝道師として在任したのは1958年から1960年の2年間です。56年前です。

 谷本清牧師の時代でした。谷本先生の義理の弟さんの山崎久史さんが幼稚園園長をされていました。同志社出身で、広島の同志社交友会の支部長でした。

「兄さん、今度は伝道師を同志社から呼んだらいかがですか?」
「それも良かろう」

 ということで、同志社に求人がきました。

「流川教会」は教団の中でもメソジスト系の流を汲む教会で、関西学院から招聘するのが当然でした。突然のことで慌てたのは同志社の方です。実はその時期には、もう新卒では持ち駒がなかったのです。しかし、このチャンスを逃してはならじと、神学部のスタッフにするためにユニオン神学校に留学することになっていた小川居さんの留学を一年遅らせ、とにかく派遣をしました。

 次の年、私が神学部長に呼ばれて「人事は学校に一任しますか?」といわれたので「お願いします」と答えると、「3月20日に、広島流川教会に行って貰います」というお達しで、とにかく布団袋と本を送って、広島にやってきました。小川さんと選手交替です。山崎さんに迎えて戴きました。戦後の会堂復興と共にその隣に建てられた、質素な事務室の2階は会議室になっていました。その一角に、畳を2枚いれて机を置いて、衝立で仕切って、伝道師の居場所にして新しい生活が始まりました。

 食事は会堂守りの保田(ボウダ)さんの所でして戴くことになりました。伝道師のお役目や仕事は滞りなく始まりました。ところが、4月が過ぎて5月初めになっても教会から謝儀を下さる気配がありません。旅費なども出したので、神学生時代のお小遣いも底をついてきました。保田さんには食事代もお払いしなければならないので、思い切って会計の高木さんにお話しに行きました。すると伝道師さんのお話は全く聞いていないとのことで、びっくりぽんでした。

 礼拝の後、会員で広島女学院の院長の広瀬ハマ先生にお話しすると「また谷本牧師が……」ということで「私がとっちめて置きましょう」ということになり、教会総会で言って下さいました。

 そこで初めて、伝道師招聘の件が決議され、謝儀の幾分か(5000円)が出ることになりました(大学卒の月給が1万3000円という歌があった時代です)。後の分は、当時教会が運営していました英語学校で2クラスを教えて、その給与(3000円)を当てることになりました。保田さんには月々決まった食費(3000円)をお払いすることになっていたのですが、これでは、結婚が出来ません。学生時代に婚約した婚約者の親からはいつ結婚が出来るのかとせがまれますので、何とかしなくてはならないと思いました。幸い英語学校は直ちに「教務主任」ということになりましたので、担当を決めるのが自由にできました。9月から中学生のクラスが2コマ空きましたので、これ幸いと手筈を整えました。婚約者は英語の教師だったのです。そこを確保して生活することにして、その8月京都で結婚をしました。


 幼稚園の中2階を少し改装して戴き、そこでとにもかくにも生活を始めました。当時、青年会、高校生会は盛んでした。ある方が「共産党のアジトのような部屋」と言われたその中二階に、わいわいと集まってきて、たのしい交わりや、集会をたくさんやりました。塩治みはるさん、森沢桂子さん、などなつかしい名を今回も週報で拝見しました。

 とにかく流川で学んだことの最大のことは、原爆を受けたヒロシマの傷跡の計り知れない大きさでした。そして被爆問題の深刻さでした。谷本牧師が「原爆乙女」の問題を通じて米国との仲立ちをされていることなどを通して、教えられたことは大きなことでした。私は、元来学生時代から「社会派」といわれてきたので、人権や差別の問題には取り組んできました。「核」問題は、始まったばかりの原水爆禁運動から始まり、脱原発まで、生涯何らかの形で関わってきました。

 牧師になってからは、流川の後、呉山手に5年、岩国に13年。岩国では米軍基地撤去や、ベトナム戦争当時の反戦米兵士支援などの問題に取り組みました。しかし、日本基督教団が過去の戦争協力について、その過ちの責任をきちんとしていない事の無責任を現場で感じ、全国教師研修会の時、当時の教団伝道委員長・鈴木正久先生に「ガミガミ」言いました。それが1967年の「教団戦争責任告白」の引き金になりました。これは後々『本』にまとめました。
(今回、向井先生にお願いして少し持ってきました。『兵士である前に人間であれ-反基地・戦争責任・教会-』ラキネット出版 2014)

 兵庫教区の神戸教会で24年、そこでは阪神淡路大地震に出合いましたので、教団を中心とした被災者救援活動に取り組みました(これも『説教集』にまとめました)。そして神奈川教区に移ってからは、明治学院教会のお務めをしたので「キリスト教主義学校と教会の問題」などに取り組み、58年間を牧会に過ごしました。今は、引退して昨年より、群馬県の聖公会系の社会福祉法人老人施設に入居して、人生の最終ステージを送っています。

▶️ 祈祷会感話 岩井溢子(2002 廣島流川、呉山手編)

2.さて、今日は、平和問題に関連付けて、フィリピの信徒への手紙から2ヶ所を読ませて戴きました。

 はじめにお読みした箇所を象徴する言葉に「福音の前進」(1:12)という言葉があります。

 これは「福音が前進する」という意味です。福音が「主格」です。誰かが「福音を前進させる」のではないのです。神がイニシアティブを取り、先手を取って下さるという事です。我々の信仰生活を考えても、いろいろな経緯があっても、その底は「神の導き」です。

 広島に来た時、近所の方から「あんたー、何でキリスト教になったん?」と聞かれたので、「親がキリスト教ねー」と答えましたら「あー、そう」で納得してくれました。信仰は、自分の決断によるのですが、自分の存在を包む大きな神の働きがあるという事で、人も納得するようなものです。

 この箇所で、元岩国教会の牧師・高倉徹先生の大変印象的な説教の思い出を、語って下さった方がいました。高倉先生の説教は初めのほうは”ぼそぼそ”言って、何を言っているか分らないのです。けれど、最後のところで、顔を紅潮させて「福音が前進する!」と絶叫されたと言うのです。

 みんなは「ああそうか、福音が前進するんだ」「我々が、伝道、伝道、と責任を感じて四苦八苦しなくても良いのだ」という安堵感を与えられたというのです。

 これは、フィリピの手紙、いやパウロの基本的信仰理解です。ヨハネの表現でいえば「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。」(ヨハネによる福音書 3:16、新共同訳)のように「神が」主語です。

「救いは神から来る」という確かさを、一方の目で、押さえて置く事が、第一点です。

3.複眼で宣教をになう教会

 しかし、次にお読みした今日の箇所(フィリピの信徒への手紙 4:8-9)では、パウロはそのような「神が」という信仰の理解、ドグマを一度離れて、一般社会で人々によって担われている徳目「真実なこと……(以下)」の中に福音を再発見をするようにと勧めます。

 ここではもう一方の目では「この世の中のことを良く見よ」ということです。それが4章8−9節の言葉です。

 少し、釈義的なことを申し上げると、ここには8つの徳目が挙げられています。こういう徳目表は新約聖書の他のところ(ガラ5:22等)にも出てきます。当時のストア派の民間哲学の中にある徳目です。

 ただ注意を払うべき点は、これらの徳目が、最後の言葉「平和の神は、あなたがたと共におられます」に集約している点です。民間哲学では、徳目の一つ一つを実行することで、個々人の人格・品性が立派になることに重点がおかれていました。パウロでは、個々人の人間的完成ではなくて「神が共にいます共同体が形成される」というのです。共同体は、具体的には「教会」のことです。また教会が関わる「社会」です。

 平和の神が共にいます共同体のことを、広島で想像すれば、原爆の被爆都市として、まず核兵器のない社会です。明治以来のキリスト教は個人倫理を第一に主張して日本の社会に切り込みました。これは近代のキリスト教でした。禁酒禁煙・勤勉、女性や子供の人格を重んじる。信仰が、単に心の平安ではなくて、倫理にまで開かれた事は、新しい宗教の在り方でした。

 しかし、核兵器が力を持つ時代には、人間の命が守られる、人類全体が生存がまず大事です。谷本先生が広島では「原爆乙女」の治療を巡って、核廃絶に向かうその草分けの働きをされました。核兵器が現実に力を持っている社会で、広島は核廃絶を訴える社会・街です。現代的にもう少しひろい範囲でいえば、とにもかくにも、社会や国の在り方が核を含めて軍事力に頼らない方向へ向かう事を目指す事です。

 ところが、現実の国の政治はそれとは逆な方向に動いています。核にものをいわせる、力の政治が支配しています。これは米国の世界支配の政策です。日本もその傘の下で、国家は政策を立てますから、政権を握っている権力者達は、日本国憲法の前文にある「諸国民の信頼と信義による」政治へは向かわないで、軍事的抑止力を持つ事で、現状を維持しようとしています。平和をないがしろにする方向へと向かっています。今「戦争のできる国への変貌」が「アベ一極化」の政治です。しかし、その対極で、これに真っ向から抵抗している市民もたくさんいます。

 今の「戦争のできる国作り」のアベ政治に対して、真っ向から向き合っているのが「沖縄」です。国は普天間基地の移設を巡って辺野古に新基地を計画しています。しかし、沖縄は知事を先頭に押し立てて「オール沖縄」でそれを拒否しています。今は(4月23日現在)国・地方係争処理委員会で論議されています。国から訴えられた翁長雄志知事の陳述書によると「歴史的にも現在においても沖縄県民は自由・平等・人権・自己決定権をないがしろにされて参りました。私はこのことを『魂の飢餓』と表現しています。」(陳述書)と述べています。また、「新基地が建設される辺野古の海はジュゴンが回遊し、ウミガメが産卵し……海は一度埋め立ててしまったなら、豊かな自然は永久に失われてしまうのです」と。

 同氏は「『辺野古が唯一の解決策である』と同じ台詞を繰り返すだけの政府の対応は、政治の堕落と思わずにはいられません」(同前)と言っています。彼は54歳の時、胃癌の全摘をし、死を前にし、後を生かされている生涯とし「身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ」(p.229)を座右の銘としています(翁長雄志著『闘う民意』角川書店 2015)。今、日本が「真実なこと」として「心に留め(4:8)」るべきことがここには含まれています。

 福音へのまなざしを一方の目で深めつつ、もう一方の目で沖縄をはじめとする、日本の現実をもう一方でしっかり見つめ、その不真実・不正義・ゆがみを糺してゆくことを「キリストに従う道」と見てゆきたいと思います。

 一方で、「福音の前進」を見据え、他方で「この世の、すべて真実なこと」を見据える、複眼で宣教をになう教会を、創立130年の年に覚えたいと思います。

祈ります。

 主よ、広島流川教会の創立130年周年を感謝いたします。

 つたない私がお招きに与かったことを感謝いたします。

 私たちはこの時、原爆被爆都市にある教会として改めて平和を祈り、平和のために働く教会の使命を覚えます。福音へのよりどころを確かに保ちつつ、もう一方で、この世の現実をリアルに見つめ、そこでの主から託された使命を担う教会でありますように、導きをお与え下さい。

 信徒の皆さん一人一人を祝し、教会に仕える「仕え人なる牧者」を祝して下さい。

 一人一人の祈りに合わせ、この祈りを御前に捧げます。主の御名によって聞き上げて下さい。

アーメン

(説教後)讃美歌 21-534番(キリストの使者たちよ)

▶️ 祈祷会感話 岩井溢子(2002 廣島流川、呉山手編)

▶️ 主よ、ともに宿りませ(2011 呉山手教会 創立120周年・礼拝説教要旨)

▶️ アルバム(1958-60 廣島流川・京都)

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