主よ、ともに宿りませ(2011 呉山手教会 創立120周年・礼拝説教要旨)

ルカ24:28-31、ヨハネ14:25-31

2011.11.6、呉山手教会 創立120周年 記念礼拝

(日本基督教団隠退教師、単立明治学院教会牧師、健作さん78歳)
1960年4月〜1965年3月 呉山手教会牧師(26歳〜31歳)
岩国教会牧師に転任してから46年後の礼拝説教

(サイト記)本説教要旨は2種類ある(一つは800文字を意識したもの)。サイトでは両方とも掲載する。

『主よ、ともに宿りませ』

ルカ24:28-31、ヨハネ14:25-31

日暮れて やみはせまり
わがゆくて なお遠し、
助けなき身の頼る
主よ、ともに宿りませ。
(讃美歌21-218番 1節)

「日暮れて」は人生の黄昏、時代の閉塞を慨嘆する叙情・文学の世界である。

「助けなき身の頼る」は主体的自覚の世界・哲学を感じさせる。そして「主よ、ともに宿りませ」の祈りの世界が続く。

「宿りませ」は「エマオのキリスト(ルカ福音書 25:29)」を連想させる。

 イエスを失った弟子達は道々語り合う。亡くなった人へ追想は喪の作業であり人格的交わりである。

 今日の礼拝は「永眠者記念会」が重ねて守られているが、この教会の歴史を担った「天上の友」を追想することはエマオの弟子たちに似ている。見知らぬ旅人はパンを裂く。二人の弟子はイエスとの共存を知る。食卓のパンの分かち合いにイエスは在まし給う。イエスと我々との存在形式の物語である。現代ではしばしば野宿者と共なる「炊き出し」に、世の闇に宿るイエスが語られる。

 ヨハネ福音書はイエスと我々との存在形式を三つの視点で教えている。

① 弟子たちが、互いに愛し合う(隣人愛ではなく、内々の愛)とき(ヨハネ第一 4:12、他ヨハネ13:34-35)。

②「霊」としてのイエス。弁護者(「助け主」口語・文語)が遣わされる(ヨハネ14:15-19)。

③「イエスの名における祈り(ヨハネ14:13・15:19)」。

 教会は祈りで危機を乗り越えて来た。今、日本は大変な閉塞にある。先日の東京新聞[筆洗](10/25)は野田内閣が「原発再稼働・増税へ一直線・TPP交渉・武器輸出禁止3原則の見直し」を行いアメリカに追従する危険を訴えていた。

 東日本大震災の後、格差・貧困は広がり、人々は「助けなき身」を噛み締める日々である。「主よ、この国を救い給へ・主よ共に宿りませ」と祈らざるを得ない。

 創立120年にその祈りを覚えつつ、行動へと立ち上がりたい。(本文のみ800文字)

『主よ、ともに宿りませ』

ルカ24:28-31、ヨハネ14:25-31

 讃美歌に「主よともに宿りませ」という歌がある(54年版39番、讃美歌21-218番)。

日暮れて やみはせまり
わがゆくて なお遠し、
助けなき身の頼る
主よ、ともに宿りませ。
(讃美歌21-218番 1節)

「日暮れて」は人生の黄昏を想像させる。また同時に時代の文明の危機を予想させるに十分な言葉である。今、世界の経済・政治は行き詰まっている。

「遠い(旧版、淋し)」は叙情・文学の世界である。閉塞・無力・失意・焦燥・孤独・落胆・寂寥・絶望が慨嘆される。

 しかし、後半の「助けなき身の頼る」は主体的自覚の世界である。

「身の」の「の」は主格的属格を意味する。自覚的思考の明確さからは哲学の世界を感じる。

 そして続いて信仰の世界の祈り(英語の讚美歌では”Abide with me”)「主よ、ともに宿りませ」が続く。この祈りは各節にリフレインとして繰り返し歌われる。

「宿りませ」という祈りは「エマオのキリスト(ルカ福音書25:29)」の「一緒にお泊まりください」を連想させる。旅する二人の弟子は、十字架上に殺されたイエスを失い、失意と喪失感のうちにある。

「この一切の出来事について話し合っていた」(ルカによる福音書 24:14、新共同訳)とある。亡くなった人へ追想は喪の作業(グリーフワーク)である。しかし、語り合うことで亡き親しい者との人格的交わりを温める。

 今日の礼拝は「永眠者記念会」が重ねて守られているが、この教会の歴史を担った「天上の友」を追想し、語り合うことは、エマオの宿への道すがら、亡きイエスへの想いを語り合う弟子たちに似ている。エマオの食卓で見知らぬ旅人はパンを裂く。二人の弟子の目が開けて、その人こそイエス自身であることがわかったという。食卓のパンの分かち合いにイエスが在まし給うという。イエスと我々との存在形式の物語である。ここを画家レンブラントは名画「エマオのキリスト」に表現した。現代ではしばしば野宿者と共なる「炊き出し」に、世の闇に宿るイエスが語られる。

 ヨハネ福音書はイエスと我々との存在形式を三つの視点で教えている。

① 弟子たちが、互いに愛し合うとき、そこにイエスが共にいる。「わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちのうちにとどまってくださり」(ヨハネ第一 4:12、他ヨハネ13:34-35)とある。ここは注意がいる。ヨハネの指摘は「隣人への愛」ではない。内々の弟子(教会に重なる)がまず互いに愛し合うことを意味する。迫害の中にあったヨハネの教会にとってそれはどんなに大事なことであったか。教会は神が賜る愛の訓練の場である。

②「霊」としてのイエス。「父は別の弁護者(「助け主」口語、文語)を遣わして、永遠にあなたがたと一緒にいるようにしてくださる。この方は、真理の霊である」(ヨハネ14:16-17)。弱い私たちには内在するイエスが慰めである。

③「イエスの名における祈り(ヨハネ14:13・15:19)」。祈りは神のみこころへと我々を導く。それは人間の行き詰まりを超えるという意味で、イエスが我々と共にいるという存在形式である。「助けなき身」が祈りによって、イエスが共にいますことへと導かれる。「祈りに追い込まれつつ」歴史の危機を乗り越えてきた姿が、教会の姿、キリスト者の姿である。

 今、日本は大変暗黒な状況に向かっている(10月25日の東京新聞[筆洗]は、野田内閣が「原発再稼働・増税へ一直線・TPP交渉・武器輸出禁止3原則の見直し」を行い、アメリカ追従路線をひた走る危険を訴えていた)。

 東日本大震災の後、格差・貧困は広がり、人々は「助けなき身」を噛み締める日々である。「主よ、この国を救い給へ・主よ共に宿りませ」と祈らざるを得ない。

 創立120年にその祈りを覚えつつ、行動へと立ち上がりたい。

笠原芳光さんを迎えての伝道集会。健作さんは一番後方。

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