最初の礼拝(1986 神戸教會々報 ㉕)

神戸教會々報 No.113 所収、1986.10.26

(健作さん53歳)

自分のからだをもって神の栄光をあらわしなさい。 コリント人への第二の手紙 6:20


「教会はまず何よりも『礼拝』共同体である。教会員・求道者の一人一人が礼拝形成者として神の招きを受けている。主日礼拝の守りにくい現代生活環境の中にあって『礼拝のある』生活スタイルを創造していくことを、聖霊の導きを信じつつ励む。礼拝は、この世を支配し、管理する価値観の中から、神との関わりにおける自由な主体としての各人を呼び覚し、相互に魂への配慮を促がす群(共同体)を形成せしめる中心的営みであり、場である。礼拝が求心力をもって、熱心にうむことなく守られていることの中に教会の証しと宣教がある」

 これは1986年度宣教方針の一節である。主日礼拝が守りにくい生活環境は現代だけではない。例えば、切支丹禁制令がようやく解けた翌年1847年(明治7年)という状況ではもっと厳しかったに違いない。にもかかわらず、112年前の神戸での最初の礼拝の様は強烈である。この事実に心をとめて、私達各々が神の前に自からを省みたい。

 最初の礼拝の様子については、今まで「日本組合基督教会史」(小崎弘道編)などを通じて断片的にしか知り得なかった。しかし、今夏出版された画期的な書物、茂義樹著『明治初期神戸伝道とD.C.グリーン』(新教出版社 1986.8)にはその全体像が明らかにされている。この研究は、関西学院の川村大膳名誉教授の収集によるD.C.グリーン宣教師の書簡を解読するという長年の基礎作業を土台とした、梅花短期大学茂教授の情熱的労作である。神戸教会創設の源流を教えられるに至ったことに心からなる感謝をしたい。

 さて、本題にもどる。

 1874(明治7)年4月19日、11名がD.C.グリーンより受洗して神戸公会(教会の意)が創立された。この日の礼拝は出入りの者全体を含めると総計200名近い会衆であったという。

 グリーンは「日本がキリスト教に二度目の開放をして以来、最大の会衆を集めた礼拝であった」「私の[日本語]教師である関[貫三]は、洗礼の性質を説明する奨励をし、そののち彼は信条を読んで、その説明をしました。洗礼ののち[教会員の]約束も同様にしました。しばらくの間ペリー博士の[日本語]教師を務めていた前田[泰一]は聖餐式の執行に先立ち同様の奨めをしました。闇は(中略)恍惚となり、時の流れに関する観念をすっかり無くしてしまいました。彼の説教が長かったので、礼拝は二時間半もかかりました」と書簡に書き記している。

 茂教授はこの礼拝の特色を、横浜における「日本基督公会」創立の模様と比較して、横浜では祈祷を除いて宣教師の執行であるのに対して、神戸では会衆代表が奨励や洗礼の説明をして礼拝の主要部分を担当し、会衆によって形成されたことに見ている。

 この日、J.デイヴィスは「この日から愛が新しい意味をもった」と片言の日本語で語ったという。恐らく、グリーンの隠れた労苦が青年たちをして神の愛に応える主体とならしめ、神の愛が共同体に具現していることの実感を告白せしめたものであろう。グリーンの青年達への信頼は大きかった。彼はこの誕生間もない教会を青年たちと神の導きに託して、1ヶ月後には、新しい彼の仕事、横浜での聖書翻訳のために神戸を去るのである。

 初代牧師に松山高吉(関貫三)が就任するのはそれから6年後(明治13)である。礼拝共同体の群としての勢いを見る。冒頭に引用の聖書の句は教会設立日の夜、祈祷会で教会員の一人が選んで読んだものだという。心に刻みたい。

静聴の座(1987 神戸教會々報23)

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