礼拝要旨「サムエルの成長」(1986 頌栄短大)

頌栄短期大学チャペル月報 1986.12 所収

(健作さん53歳)

サムエル記上 2:22-26


 10数年前、山口県の教会附属幼稚園にいた時、毎年年長組の夏の「お泊まり保育」を、中国山地の奥深い小さな小学校の分校を借りて行っていた。

 当時生徒が数人だという教室に「幼な児サムエル」と題される絵が掲げてあったのが今も心に残っている。公立学校の、その教師のありように、きっと聖書が深く関わりあっているのだと思った。

 サムエルの母ハンナには子がなかった。祈りに祈った末、与えられた男の子がサムエルであった。そしてハンナはその子が乳離れした後、神と約束したように彼をエルサレム神殿の祭司エリのもとにあずけた。エリは老いて敬虔な宗教家であった。しかし、どんな立派な人にも、人生にはどこか悩みがあるもので、彼の二人の子はよこしまで、神と人とを恐れなかった(サムエル記上 2:12)。彼らは神殿への捧げものを祭司の家の特権をよいことに横取りをした。老父エリはこのことに心を痛めた。私たちは、神に負い目あるこの祭司エリにサムエルの教育が委ねられていることに驚きを憶える。

 私は教育というものの姿をそこに見る。幼稚園の現場でも、もう数年も経験を経た教師が、主任からあたかも教育実習生に与えられるような注意を受けているのを聞くと心が痛む。しかしベテランの教師もまた或る子供から見れば負い目を負っているのではなかろうか。

 ある春のこと、卒園の時、ある子に在園中一番楽しかった思い出を訊ねた。「受け持ちの○○先生がお休みで、隣りの△△先生と一緒に遊んだ時のこと」という答えに強い衝撃を受けた。このことは心の底に沁みついて離れない。しかし、それでいて教師にはやはり子らが委ねられている。祭司エリは我が子の教育には挫折している者でありながら、なおサムエルを託されている。教育とはまさに神の赦しにおける営みではなかろうか。このことを忘れた時の教師の奢りは救い難い、と心に留めねばならない。

 教育を神のなせる業だ、と指摘してやまない聖書の言葉がある。

「私は植え、アポロは水を注いだ。しかし成長させてくださるのは、神である。だから、植える者も水を注ぐ者も、ともに取るに足りない。大事なのは成長させて下さる神のみである」(コリント第一 3:6-7)

 多少能力のある人もそこに溺れず、劣等感に苛まれる人もそれにこだわらず、野の花が美しく咲いているように神は一人一人を適切に育てて下さることを信じて、毎日を歩むのが保育者の務めではなかろうか。

 皆さんが保育の現場に立った時、神に愛されたかけがえのない子供たちと出会うのだという希望を心に温めながら、この学びの時を過ごしていただきたいと思う。