1986年12月7日、待降節第2主日
(説教要旨は翌週週報に掲載)
(牧会28年、神戸教会牧師9年、健作さん53歳)
マタイ 1:1-17、説教題「ヨセフの系図」岩井健作
”ヤコブはマリヤの夫ヨセフの父であった。このマリヤからキリストといわれるイエスがお生まれになった。”(マタイによる福音書 1:16、口語訳)
阪田寛夫氏が『バルトと蕎麦の花』を書いた。(月刊「新潮」、新潮社 1986年12月号)
Y兄の読後の感慨を聞き、誘われて読んだ。
雪深い山中の教会のクリスマス礼拝を背景に、カール・バルトの神学を通し生きることへの肯定を語る歌人牧師を訪れる物語である。
牧師”ユズル”さんは、少年・青年期を劣等感に悩みながらも、マタイ25章の1タラントしか託されない者をも信頼する《神の愛》を告げる聖書のメッセージに開眼して入信、かつ献身して牧師となる。
キリスト教界の人間関係に挫折する彼を、強い後ろ盾になって支えた彼の父は、信仰者でもなく、農村に育ち働き、そして短歌を詠む自然人である。
《ただ神の垂直的恩寵により人は救われる》のであり、決して人のわざには依らないと信仰論の筋を説くカール・バルトと、自然をありのままに生き、歌を詠む父を象徴する”蕎麦の花”が、断絶と導入を併存させるが如く語られている所にこの小説の妙味がある。
この小説は、私のマタイ1章「イエスの系図」の読み方に新しい示唆を与えた。
マタイ福音書は、旧約預言の成就という点で、イエスの出来事を捉え、主張している。
その視点では、冒頭の系図はイスラエル民族の信仰の父祖アブラハム、そして理想の王ダビデ、この両者の子孫としてのイエス・キリストの系図なのである。
4名の女性名(タマル、ルツ、ラハブ、ウリヤの妻)の導入も、イエスの祭司的働きへの示唆とされてきた。
しかし、マタイ1章の主題を、滝沢克己氏がいみじくも指摘するように、「神われらと共にいます=インマヌエル」(マタイ 1:23)に置くならば、神と人との逆転不可能な神の主導的救いのわざがまず強調されるべきであろう。
(滝沢克己『聖書入門 マタイ福音書講義 第1巻』三一書房 1986)
とすれば、マタイ1章16節のように「ヨセフの系図」は系図としては切断されて、マリヤからまさに聖霊によってイエスは誕生した(神による、決して人に依らない、啓示の光)ことのみが強調されるべきであろう。
”ヤコブはマリヤの夫ヨセフの父であった。このマリヤからキリストといわれるイエスがお生まれになった。”(マタイによる福音書 1:16、口語訳)
とすれば「ヨセフの系図」とは何なのか。
神が人の歴史を切断したことの強調のためにあるのだろうか。
そうではあるまい。
「ヨセフの系図」が示す体験や継承としての人間の歴史や自然は、あの神の啓示の《受け皿》として並存している。
神の啓示としてのイエスの誕生は、ヨセフの系図を伴って語られる。
ここにマタイの《文学的訴え》がある。
私たちは「ヨセフの系図」に類するものを大切にしつつ、クリスマスを迎えたい。
(1986年12月7日 神戸教会 岩井健作)
1986年 説教・週報・等々
(神戸教会8〜9年目)