静聴の座(1987 神戸教會々報 ㉖)

神戸教會々報 No.114 所収、1987.2.15

(健作さん53歳)

 早朝の陽光がステンドグラスを通し柔らかく注がれ、礼拝堂には長椅子が静かに沈み、輪郭だけが白く光って浮かびあがっている。人気のない空間は逆にここを魂の養いの場とした多くの人たちの行き交いを想像させる。ふと、ホテルのチャペルではなく街の歴史ある教会で結婚式を挙げたい、と言っていた若いカップルのことを思い出した。ここには重みが在るという。

 彼らが素朴にいう重みとは何だろうか、と考えさせられる。夏期集会の折、岸本牧師は、ヨーロッパ中世では会堂正面の奥の部分を「マリヤの座」といって、マリヤが痛みの中で受けた恵みを象徴させたという。そのような意味から言えば、この会堂もどれ程多くの人々の痛みと悲しみ、またそれを通して働く恵みが光として灯されてきたことであろう。

 1932年、この会堂が設立された年、山川小三郎、武藤誠、小磯良平諸兄の結婚式がここで行われたと当時の会報は伝えている。小磯夫人は50余年後、神の許に召された。自から画いた夫人の肖像画を掲げ、結婚式を挙げたその場で、柩の夫人と共に葬儀の礼拝をする老画伯小磯兄の姿に、この空間は結婚式と葬儀とを同じく礼拝の心で行う場であることをしみじみと思った。「主は与え、主が取られたのだ。主のみ名はほむべきかな」(ヨブ 1:21)。ここにはそんな響きがある。ホテルのチャペルで葬儀が行われたとは聞かない。この違いは重い。

 結婚式も葬儀も、日曜毎に礼拝を守る人々の群とのつながりで行われる。その礼拝共同体の群は、この場で聖と俗、信と不信、神と人、赦しと審きの緊張関係の間に身を置きつつ、祈りかつ聖書の言葉とその説きあかしに耳を傾け続けてきた群でもある。正面には十字架の飾り一つすらないプロテスタント派の典型のようなこの会堂の奥深い部分は、もしかしたらじっと神に聴従する低く固い椅子の部分ではないかと思った。重厚な長椅子は太平洋戦争後、物資不足の時代に作られた。日本軍による建物徴用で接収されてしまった長椅子の新設にどんなに苦労したか、私がこの教会に赴任した頃、平井城兄は切々と話された。自分の分と、そして伝道のための自分の隣りに座ってもらう人の分と二人分の座のために献金して欲しいと訴えたという。この話は尊い。たとえ夫と妻、親と子という親しい間柄であっても、隣りの座に共に座るということは、神の招きと恵みによる以外にはない。そこに至る道程はまた神のみ手のうちにあり、人の思いを越えている。「忍耐は練達を生み出し、練達は希望を生み出し……」(ローマ 5:4)という時の流れをたどり、祈りに応えて示されるものであろう。「隣りの座」への祈りを忘れた教会ではありたくない。

 さて、「昭和初期」献堂の会堂も50余年を経て、機能的にはかなりの不便さをもつ。今年は冷暖房機も取り付け補いもした。しかし足の不自由な老齢者・「障害者」の人たちには、あの石段の登り降りはどんなに苦労なことか。また講義中心型の日本の知識層文化の伝統を担うプロテスタントの会堂の例にもれず、席の数の多さに比べて、交流の空間が狭い。こういった機能面での補いは、旧い会堂をもつ諸外国の教会においても大きな課題であるという。多くの場合、それは現代の都市生活文化に対応できる附属建物によって補われているようである。このことは私たちの教会にとっても示唆に富む。隣りの座への祈りと共に、この課題への祈りをも、静聴の座で持ちつづけていきたい。


(サイト記)本文中の「岸本牧師」は岸本羊一・紅葉坂教会牧師。前年1986年夏期特別集会の講師、主題「現代における礼拝 〜宣教及び会堂の課題をふまえつつ」。

園庭の赤土(1987 神戸教會々報24)

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