1987年3月8日、復活前第6主日、卒業感謝礼拝
(翌週の神戸教会週報に掲載)
(牧会29年、神戸教会牧師10年、健作さん53歳)
マタイによる福音書 16:24-26、説教題「節目を越える」岩井健作
”自分を捨て、自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい”(マタイによる福音書 16:24、口語訳)
卒業感謝礼拝を、今日は共に守ります。
学び舎の思い出には、何を学んだか、と共に、誰から、また誰と共に学んだかということがあります。
聖書にも「愛にあって真理を語り」(エペソ 4:15)という言葉がありますが、「何を」という真理は、「誰」という人の愛の器に盛られて伝えられ、運ばれます。
《真理と人格》とは車の両輪のように切り離せないものです。
そのことは、信仰の学びについても同じです。
「クリスチャン2世は親の信仰に躓(つまず)く」とよく申します。
学ぶべきは信仰の真理であるのに、親の現行不一致など些細なことに躓きます。
そこで真理である信仰までも捨ててしまっては、浅はかというものです。
むしろ、人を通して、真理を知り、真理によって躓きを越え、さらに人を深く知るという相互作用にまで抜け出すことこそ、大事です。
「後なる者は先になり、先なる者は後になる」という逆説を含んでいるのですが、信仰などのような《主体的真理》です。
これは数学のような客観的真理ですら「好きな先生から学ぶと良くわかる」と申します。
ペテロがイエスに従ったのは、「わたしについてきなさい。」(マタイ 4:18以下)という言葉に惹かれ、イエスの人格に魅せられてのことです。
しかし、イエスに従ってきた群衆は、当時の権力者がイエスを危険人物として敵視し始めると多くは去っていきました。
その中で、ペテロは「あなたこそキリスト(救い主)です」と告白して、劇的な信従を続けます。
けれども、ペテロの思った「キリスト」は、イエスが考える「十字架に向かう苦難の僕」ではありませんでした。
そこには、理解の至らない所や誤解がありました。
しかし、躓きを通して、イエスを深く知ることへと導かれたのが、ペテロでした。
イエスがペテロに2度目に声をかけた言葉には「自分を捨て、自分の十字架を負うて」と、最初の直接的追従を否定的契機を通して深めた促しでした。
私たちも、2度3度とイエスの招きを深めつつ聞き、従って参りたいと存じます。
カイ・ムンク(1898-1944、デンマークの抗ナチ殉教牧師)は、イエスを「神の語り給うたことにのみ従おうとする狂気の勇気」を示す方として、イエスに従う生涯を貫徹させました。
参照『アウシュビッツで考えたこと』(宮田光雄著 みすず書房 1986)
そこには、ペテロのように躓きの節目を、恵みによって越えていく証があります。
(1987年3月8日 説教要旨 岩井健作)




1987年 説教・週報・等々
(神戸教会9〜10年目)