批難されるイエス《マタイ 11:7-19》(1987 説教要旨)

1987年3月15日、復活前第5主日
(翌週の神戸教会週報に掲載)

(牧会29年、神戸教会牧師10年、健作さん53歳)

マタイによる福音書 11:7-19、説教題「批難されるイエス」岩井健作

 ”見よ、あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だ、と言う”(マタイによる福音書 11:19、口語訳)


 ”絶交”と”仲直り”を繰り返して、友達と一緒に成長していく、小学校2年生の杏子ちゃんの話を、作家・松下竜一氏は『ごめんねパーティー』というノンフィクションの童話にまとめている。(『はらっぱ』46号所収)

 子供には、「遊んであげない」「いやだ」という露骨さに倍して、「ごめんね、仲直りしよう」という面があることを、実によく描写している。

 ところが、今日の聖書テキストでは、女の子の「婚礼ごっこ」では、男の子は「笛ふけど踊らず」だし、「弔いごっこ」にも胸を打って遊んではくれなかったと、子供の遊びの半面だけが、それも否定面が取り上げられ、「今の時代」の比喩とされている。

 ”今の時代を何に比べようか。それは子供たちが広場にすわって、ほかの子供たちに呼びかけ、『わたしたちが笛を吹いたのに、あなたたちは踊ってくれなかった。弔いの歌を歌ったのに、胸を打ってくれなかった』と言うのに似ている。”(マタイによる福音書 11:16-17、口語訳)

 この箇所に登場するバプテスマのヨハネやイエスを囲む時代の人々は、子供たちが仲直りしていく場面を比喩にすべき現実には全く目が届かなったのであろうか。

 人間が生きている現実に、人間の交わりを復元し、回復させる場面がないはずはない。

 神導き給う世界を信じるユダヤ人たちにそれが見えないのが不思議だ。

 実際には、バプテスマのヨハネが宗教覚醒運動を始め、イエスが社会的・宗教的に疎外された人々と、慣習を破ってまで食卓を共にし盃を交えているという事実があるのに、それを批難してしまっている。

 「悪霊に憑かれたヨハネ」とか「大食漢で大酒飲みのイエス」という、18節、19節の言葉はよほど古い伝承を伝えていると思われるだけに、この批難には真実味がある。

 ”なぜなら、ヨハネがきて、食べることも、飲むこともしないと、あれは悪霊につかれているのだ、と言い、また人の子がきて、食べたり飲んだりしていると、見よ、あれは食をむさぼる者、大酒を飲む者、また取税人、罪人の仲間だ、と言う。しかし、知恵の正しいことは、その働きが証明する」。”(マタイによる福音書 11:18-19、口語訳)


 マタイ福音書は、11章19節後半で「知恵の正しいことは、その働きが証明する」と言って、イエスが取税人や罪人と交わる働きを論証する。

 確かに、旧約聖書の知恵文学の一つである「箴言」には、人の世には「絶交」の面と「仲直り」の両面があることを謳った知恵の言葉がある。

 ”世には友らしい見せかけの友がある、しかし兄弟よりもたのもしい友もある。”(箴言 18:24)

 しかし、今日のマタイのテキストは、そのような知恵が大事だ、とだけ言っているのではあるまい。

 歴史の生々しい現実を生きる者が、「仲直り」の面を真剣に生きようとすれば、少々の批難は当然受けるべきこと、そして「キリストのみわざ」(マタイ 11:2)、「その働き」(同 11:19、今日の箇所)にも、批難がつきまとったことを並べている。

 日常の足下のことに取り組んでいくと、そのような面が避けられないのであろう。


 「批難」(積極的意味を持つ批判とは区別されたもの)を受けることは、やはり、煩わしいことではある。

 しかし、イエスは、悲しみを味わう心をも含めて、社会から最も切り離されたり、差別された人との「仲直り」方向への交わりの復元力を発揮された。

 私たちも、その足跡に従うように招かれている。

(1987年3月15日 説教要旨 岩井健作)


1987年 説教・週報・等々
(神戸教会9〜10年目)

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