神は多くの人々を愛す《マルコ 3:31-35》(1987 説教要旨)

1987年3月22日、復活前第4主日
(翌週の神戸教会週報に掲載)

(牧会29年、神戸教会牧師10年、健作さん53歳)

マルコによる福音書 3:31-35、説教題「神は多くの人々を愛す」岩井健作

 ”神のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである。”(マルコによる福音書 3:35、口語訳)


 この聖書の言葉は、私たちの教会の年度標語に選んだ句です。

 この言葉は、ある意味で、キリスト教の福音理解の中心に繋がっていて、奥深いものを含んでいます。

 兄弟・姉妹・母という血縁の肉親の人間関係は、所与の、生活的な、極めて直接的な関係です。

 身近で具体的で、避けることも、逃げることもできないだけに、愛憎が表裏を含めて渦巻く場です。

 イエスも、親族には誤解されましたし、同民族から十字架の死を押し付けられました。

 それだけに、そこは《宗教的自己否定》が最も強く働くところであり、「(神の)みこころのままに」という祈りが、祈られねばならない場でもあります。

 そういう意味では《宗教的内面性》において捉えられるべき言葉です。


 さて、このマルコ3章31〜35節の「まことの身内のもの」の章句の歴史的な成立について、聖書学者が述べているところを見ますと、まず35節が独立の伝承として存在し、それを素材にして31〜34節の「群衆に囲まれるイエス」の物語を、マルコの著者が構成したとあります。(参照:ブルトマン、田川、荒井、川島)

 ”さて、イエスの母と兄弟たちがとがきて、外に立ち、人をやってイエスを呼ばせた。時に、群衆はイエスを囲んですわっていたが、「ごらんなさい。あなたの母上と兄弟、姉妹たちが、外であなたを尋ねておられます」と言った。すると、イエスは彼らに答えて言われた、「わたしの母、わたしの兄弟とは、だれのことか」。そして、自分をとりかこんで、すわっている人々を見まわして、言われた、「ごらんなさい、ここにわたしの母、わたしの兄弟がいる。神のみこころを行う者はだれでも、わたしの兄弟、また姉妹、また母なのである」。”(マルコによる福音書 3:31-35、口語訳)


 マルコは、「みこころを行う者」(マルコ 3:35)を、当時の社会層で言えば《底辺の無名の群衆の生きざま》の中に見ることによって、単に心の問題としている当時の教会の人々に、一つの指摘(あるいは批判)をしたわけです。

 人間誰しも、悩みがあります。

 特に、人間関係の悩みは普遍的なものです。

 しかし、それを普遍化・一般化の方向に締めくくってしまうのではなく、当時であれば、エルサレムの貴族や大地主と「地の民」とは、その悩みの次元や質の違いは歴然としていることの認識を欠いてはならない、という指摘です。

 聖書のメッセージは、普遍的真理への解き明かしではなく、歴史の中で苦しむ者への《神の働きかけの使信》です。

 イエスの十字架への関わり抜きでは、知ることのできない、メッセージです。

 マルコは、3章35節の言葉に対して、マルコ自身の判断を示しました。

 自分は「神のみこころを行う者」を《無名な群衆の中に見る》と。

 この言葉を、自分の生き方を通じて、十字架に向かうイエスの方向に引き寄せたのです。

 それは、当時の教会の人々の持っている《狭さ》(普遍的であるがゆえに陥る)に対して、「神は多くの人々を愛す」という批判的でありながら《広さ》を持つ語りかけです。

 私たちは、現代の日本という状況で、この句を心に刻むことによって、私たちに欠けているものは何かを気付かされ、加えて、マルコがやったように、自分なりの判断をしながら「神のみこころを行う者」へと近づくことを、祈り求めてまいりたいと存じます。

(1987年3月22日 説教要旨 岩井健作)


 翌週 1987年3月29日、復活前第3主日、
 神戸教会礼拝説教
 山里勝一(糸満教会)牧師
 ルカによる福音書 10:25-37
 「隣人愛 ー 沖縄の民話にきく」

1987年 説教・週報・等々
(神戸教会9〜10年目)

error: Content is protected !!