夜明け、鶏は鳴く《マタイ 26:31-35》(1987 説教要旨)

1987年4月5日、復活前第2主日
(翌週の神戸教会週報に掲載)

(牧会29年、神戸教会牧師10年、健作さん53歳)

マタイによる福音書 26:31-35、説教題「夜明け、鶏は鳴く」岩井健作

 ”今夜、鶏が鳴く前に、あなたは三度わたしを知らないと言うだろう”(マタイによる福音書 3:34、口語訳)


 福音書のペテロがイエスを否認したという物語は、読むたびに私たちの心に刺さって離れない。

 それは、弟子ペテロの人間としての内なる脆さが、また自分のそれでもあるからだろう。

 私の内なるペテロは、この物語に捉えられて安堵さえする。

 考えてみれば、誰が、イエスを否認したペテロ以外であり得ようか。

 イエスは、歴史のラディカリスト(徹底派)である。

 当時、ライ病や精神病者と共に生き、遊女や取税人の友であったこと自体が、そのことを示す。

 それは、支配者の弾圧を誘発せざるを得なかった。

 ペテロが従いきれなかったからといって、誰がペテロを責められようか。

 私の内なるペテロは、そのように同調する。

 しかし、また内なる挫折の新たなる経験として、「外に出て激しく泣いた」(マタイ 26:75)ペテロが、心の内に疼くことも確かである。

 この事実を福音書はかなり客観的に記している。

 「牧者を撃て、その羊は散る」とは旧約聖書「ゼカリヤ書」13章7節の言葉であるが、マタイはこれを引用しつつ、牧者であるイエスが十字架刑に打たれる時、その羊は散って、独りひとりとされる、という。

 ”「つるぎよ、立ち上がってわが牧者を攻めよ。わたしの次に立つ人を攻めよ。牧者を撃て、その羊は散る。わたしは手をかえして、小さい者どもを攻める。”(ゼカリヤ書 13:7、口語訳)

 ”そのとき、イエスは弟子たちに言われた、「今夜、あなたがたは皆わたしにつまずくであろう。『わたしは羊飼を打つ。そして、羊の群れは散らされるであろう』と、書いてあるからである。”(マタイによる福音書 26:31、口語訳)


 これは政治勢力として離散するという意味と共に、散っていく方向は《独りひとり》という内面化に向かわしめられることも込められている。

 想像するに、このペテロのイエス否認の伝承物語は、この物語を読むごとに、信仰を内面的に深め、ペテロの心情に共感する人たちによって、語り継がれたのではなかろうか。

 当時の教会の指導的人物の信仰失敗談をあえて取り入れつつ、内面的信仰の強化を促す、群れの情熱さえ感じられないであろうか。


 この物語に「しかしわたしは、よみがえってから、あなた方より先にガリラヤへ行くであろう」(マタイ 26:32)と挿入したのは、マルコだという(マタイはそれをそのまま受け継いだ)。

 ”しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先にガリラヤへ行くであろう」。”(マタイによる福音書 26:32、口語訳)

 ここには、福音書記者が、信仰の内面化への引力をもつ物語を、もう一度、イエスのガリラヤでのラディカルな活動の原事実、それ故に「神の国の福音」の出来事へと引き戻す、意図が現れている。

 内面的真実は、真理を主体化(自分のもの)するためには通らねばならない通過点である。

 しかし、大事なことは、イエスの《十字架へと向かう生そのもの》である。

 このことの確かさへ目を向ける時、主体化の夜は終わり、夜は明け、鶏は鳴く。

 鶏鳴は、夜の深さの確認ではなく、朝の到来を告げる。

 夜の失点が基準ではなく、朝から始まる加点が大切なのである。

 参照:海保博之著『「誤り」の心理を読む』(講談社現代新書 1986)。「過ちを断罪するよりも過ちの効用を構造化した加点の思想」に教えられた。

 福音の夜明けを生きる者でありたい。

(1987年4月5日 説教要旨 岩井健作)


1987年 説教・週報・等々
(神戸教会9〜10年目)

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