四人の人に運ばれて(2008 礼拝説教・マルコ)

2008.9.28、明治学院教会(128)聖霊降臨節 ㉑

(単立明治学院教会牧師 4年目、健作さん75歳)

マルコ 2:1-12


1.”四人の人に運ばれてイエスのもとに来た中風の者が癒された”お話は「人々は皆驚き、……神を賛美した」(マルコ 2:11)とあるように、イエスにまつわる「驚くべき出来事」であればこそ、語り伝えられ、文書伝承となり、編集文書、そしてマルコ福音書となって、私たちの手にある。

 台湾出身の神学者・宗泉盛氏(”C.S.Song” サンフランシスコのPacific School of Religion 教授)は『民話の神学』(新教出版社 1984、翻訳:岸本羊一 ・金子啓一)の中で次のようにいっている。

「神の支配とは本質的に物語である。…それは広がっていく物語であって、抽象化し、規定する概念ではない。…イエスを神学的概念や定式に包まないで、イエスの物語を告げる道を選んだ…福音書の記者たちに感謝しなければならない」(C.S.Song)

「福音」を概念でまとめる叙述の仕方はある。

 例えば、ヨハネ第一の手紙 4章7〜10節。名文である。

”愛なき者は、神を知らず、神は愛なればなり。”(ヨハネ第一の手紙 4:8、文語訳)

 ”愛さない者は、神を知らない。神は愛である。”(同、口語訳)
 ”愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。”(同、新共同訳)

 しかし、その”愛”を”壁の中の愛”と新約聖書学者シュタウファーは言った。

 概念に「福音」は盛りきれない。「物語」がその限界を破っている。

2.イエスは疎外され、差別され、抑圧され、貧しくされ、病を負わされた人々を愛された。

「愛」はそれに関わる人との物語として語る以外にない。

”中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。”(マルコ 2:9、新共同訳)

 とあるが、律法学者たちには「罪をゆるす」というテーマは、「神を冒涜する」ことであり、死罪に当たる大事件だった。事実、イエスはこのことが引き金で殺された。

 しかし、イエスには、病める人の病から解放が問題であった。

 律法議論を中心とする者を避けられた。

 この物語では「四人」や「屋根をはがして穴をあけ…床をつり降ろした」(2:4)という細部の熱意が大事なのであって、その意味では歴史の中での”一回的”物語です。

3.私が理事を務めていた社会福祉法人の理事会では、聖書を読み、祈りが捧げられていた。担当の宣教師はいつも的確な聖書テキストを選んでいた。

 このマルコ2章を読んだ時のこと。

「四人」は、介護福祉士、看護師、ヘルパー、医師、理学療法士、施設長、事務職員、運転手、掃除人、施設管理技師等々の協力を意味した。

 職員は、利用者をイエスへと運んでいるだろうか。途上の困難を「屋根をはがして穴をあけ」るほど、大胆に行っているだろうか。今日イエスのところに連れて行けば「癒される」という意味を把握して、確信を抱いているだろうか。

 職員の研修で、栄養士は利用者の食事での人間性の回復の努力を発表した。食材の仕入れ、価格、調理、運搬、食堂の雰囲気。食事が人間性の回復につながっていくための哲学、信仰、研究、協力、祈りがどれほど大事か。それはイエスに向かう「四人」の過程を意味するものであった。

 一人の人間の「魂の解放」「人間としての自由」「人間としての自律」「助け合い共に生きる喜び」など、福祉の現場での証しと重ねて、このテキストを読んだことは貴重な経験であった。

 今、福祉や医療が、新自由主義の競争原理に丸投げされている中で、その証しは「驚くべき出来事(奇跡)」でもあった。

「中風で倒れる」に象徴される、倦み疲れる経験の重さの中で、「四人」のようにイエスに従いたい。

▶️ 中風の者をいやす(2009 小磯良平 ⑳)

▶️ イエスの振る舞い − 病からのいやし
(2014 聖書の集い・イエスの生涯から ⑤)

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