まごころから信じるなら《使徒行伝 8:26-40》(1991 本日説教のために)

1991年5月5日、神戸教会週報、復活節第6主日

(神戸教会牧師14年、牧会33年、健作さん57歳)

 ピリポがエチオピアの高官に洗礼を授けた物語には、ある爽(さわ)やかさがある。

 馬車に乗りながら聖書を読む高官(宦官)。

 並んで走るもう一台の馬車。手引きを求めたその箇所は、かのイザヤ53章の「僕の歌」。

 旅の途上の洗礼式。

 授洗者ピリポは消え去って、残った彼(高官)は「よろこびながら旅をつづけた」という。(使徒行伝 8:39)


 使徒行伝の著者ルカは、異邦人伝道への導入としてこの物語をここに入れたのであろう。

 高官は暗に異邦人を意味していたし、伝道は、エルサレム教会の領域をはるかに離れて進んでいる。

 しかも、ピリポと高官との問答は、最古の教会の洗礼式式文を留めている、という。

 特に受洗者の「わたしはイエス・キリストを神の子と信じます」という答え(使徒 8:37)は、洗礼に関連した最古の信仰告白の一つである。

 新約聖書中には、このような最古の告白が多数保存されている。

「あなたこそキリストです」(マルコ 8:29)
「イエスは主である」(第1コリント 12:3)
「イエス・キリストは主である」(ピリピ 2:11)

 信仰告白が発生した理由は5つある。(新約聖書学者 O.クルマン)

 ① 洗礼と受洗者に対する教理教育
 ② 正規の礼拝
 ③ 悪魔を祓う式
 ④ 迫害
 ⑤ 異端との論争

 信仰告白は、キリストに関する一項目定式から、キリストと神の二項目へ、そして聖霊を含めて三項目定式に発展し「使徒信条」が完成した。

 4世紀には「ニカイア信条」、続いて「アタナシオス信条(三位一体論)」が作られた。

 古代教会の三信条の成立である。

 プロテスタントの諸信仰告白はその後に続き、いや果てには、我が「日本基督教団信仰告白」も、その線上にある。


 さて、生きた人格関係(神と人)は、言葉で告白しないと、以心伝心では明確でない。

 と言って、言葉は不自由なもので相手の解釈を生むし、固定化を免れないから、真実と虚偽の表裏を併せ持たざるを得ない。

 その一切を相手に委ねたところに「告白」は成立する。

 (愛情の告白ということとなぞらえれば、よくわかる)

 とすれば、我々が「信仰告白」をするという事は、そのこと自身が恵みなのである。

 言い換えれば、出来事としては、神にすでに(イエス・キリストの出来事を通して)受け入れられていることの、拙(つたな)い追認にすぎない。

 でもそれが、自分の主体的行為であるというところに尊さがある。

 「まごころ」とは、その主体的在り方の別表現ではあるまいか。

(1991年5月5日 神戸教会週報 岩井健作)


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