1970年6月7日 岩国教会週報
「先週説教より」マルコ12:28-34
(岩国教会牧師5年目、健作さん36歳)
マルコ12章の隣人愛の教えについて、律法学者とイエスとの間の決定的違いは「法」というものの見方にある。律法学者は「法は人間を律する神の意志」とみているが、イエスは「人間であることの目標・規準としての神の意志」とみる。前者は、人間を禁止・審きのもとにみる。即ち人間の脆弱・卑劣・悪・罪深さを先取りする。後者は、人間を神の呼びかけのもとに、愛の対象としてみる。即ち「人間は善意と倫理的エネルギー、衝撃力と抵抗力、献身と勇気と犠牲の覚悟を豊かに蓄えているもの」とみる。
その違いが歴然とするのは、律法学者は「第一の戒め」を求めて、法の大系を整理しようとする。しかし、イエスは「隣人愛」を法の大系の一つとは考えないで、「これより大事な戒めは他にない」といって他の戒めを相対化する。非常に重要な指標と考える。この戒めは、生きがいであり、死にがいであると考える。この前には、こまごまとした取り決めも力をなくしてしまう。
例えば、一度でも、ベトナム戦争で『人を殺せない』ことに目覚めた兵士にとって、軍隊のこまごまとした法さえも、彼らの良心を縛ることは出来ない、といった類である。「隣人愛」はそのような重大さを持つ。決して「ねばならぬ」という戒めではない。イエスはこのために生き、そして死んだ。福音とは、このことが成し遂げられ、また成し遂げられるであろうという宣言であり、信じた者への力である。
『三ねんねたろう』という山口県民話における「ねたろう」の面白さは、隣人のために田に水をひいたことの故に、こまごまとした世の徳目に上回る偉大さを彼が得ていることである。隣人への愛という満ちた生き方をしたい。
(1970年5月31日 岩国教会 岩井健作)


