宣教の主体とは(2005 沖縄・宣教学 ㊵)

2005.3.27、於関西神学塾

(日本基督教団教師、71歳)

1.はじめに

 いつの間にか関西神学塾で固有名詞付きの「宣教学」をさせて戴いてから40回目になりました。気の利いたことを発題しなければと思いながら、ここまで来てしまいました。ここまで続けることができたのはひとえに聞き手の好意と事務局の熱意の賜物であります。
 さて、今日は、日頃思っている「宣教の主体とは」ということに、最近経験していることを思い出しながら考えてみたいと存じます。

2.2月6日(日)のこと

 前回は「講義」を予定しておきながら途中で事務局とも相談し、急遽「中止」して、京都の「求め、すすめる連絡会」(これについての経緯は別紙)の事務局会議へ私が陪席を思い立ち、できればと神学塾有志にも陪席を願い、遠路御参加を願った次第です。

 まず、会が重なったとき、先に予定されたことに責任を果たすのが「倫理」です。しかも「塾」は定期で、私が「主役」の集会です。それをあえて変更するには勇気がいりました。まずは、定期に「聴講」されている方々には伏してお詫びをいたします。あえて、それを破ったのは「京都のあの会合」に緊急性と危機感を抱いたことの決断でした。最初、第33回 教団総会(2002年11月)での「審議未了廃案」をうけて「求める会」を「求め、すすめる連絡会」として「合同とらえなおしをすすめる」課題をこの会に盛り込んだ責任は私にあります(それはこの会に「教会的視点」を組み入れる必要を感じたのです)。

 この「会」は直接に教会の宣教に関わる「会」ではありませんが、根は教団の沖縄(教区・教会)との関係での本土の抑圧・差別の歴史への参与と責任をどのように自覚していくかという宣教課題に関わって始められた会です。

「教会的視点」を全く持たないで「個人有志」の運動とまでは言い切れません。「宣教の主体」にかかわることだと思っています。「優先」の動機です。

2.宣教の主体とはなにか。

 これはこの講座の中心問題です。宣教(ケリュソー、宣教する、告げしらせる、術語で「福音」を伝える)の主体は「教会」である、と言えましょう。この言い切り方は極めて「神学的」です。そして神学的には「正しい」でしょう。というのは宣べ伝える内容としていの「福音」は原始教会以来、イエスにおいて起こった神の啓示(イエスの十字架の死においてなされた神の贖罪愛、およびそれの付随する信仰的事態)を伝えることですから、その使信を信じている主体が「教会」であるので、宣教の主体は「教会」です。

 ですが、このように考えると、イエスの出来事は原始教会の信仰に集約されて、歴史のイエスの言動・生涯・業の持つ意味が宣教内容に入ってきません。その批判は既に「福音書文学」の成立にこめられています。宣教はイエスの歩んだ歴史そのものを今日の歴史で再現することを含んでいると理解されます。

 それは原始教会以来(キリスト教の名のもとで)の「信条・信仰告白」の文言の範囲内には収まりきれません。その担い手はもっと広範です。すると「宣教の主体は教会」と単純には言えません。いわゆる「信条的教会・正統的教会」からはみ出た異端まで含めての周辺の集団、さらには個人が「宣教の主体」たり得ることを含まねばなりません。

 それでは、これをイエスの継承者としての個人に限定還元して、原始教会以来の「教会」を否定することが「イエスを生きる」という意味での(宣教という言葉を使うとして)その主体であるかと言えば、その場合イエスの生が含んでいた欠くべからざる「愛」(共同性)が、歴史の現在に継承・復元されません。例えば近刊『イエスとはなにか』(笠原芳光・佐藤研編、春秋社 2005年2月) にはイエスの継承のうち人間社会に及ぼした共同性の部分に目が注がれてはいない。この点『キリスト教思想への招待』(田川建三著、勁草書房 2004年3月)はイエスの社会的存在の歴史的意味が引き出されている。

 その意味で、宣教の主体は歴史の教会に対する批判的視点を含んだ「教会」である、とまとめておくことにします。

 そこで、はじめに戻りますが、2月6日をめぐっての私の危機感は「教団」の中で現執行部に突出した政治の流れが「信条主義的教会」に固まっていることに向けられると同時に、もう一方でそれに「否」を唱える側の「教会的視点」の希薄さにも感じざるを得ないところにあります。例えば「求める会」の最初の趣意書が運動の担い手を「キリスト者」個人に還元している点です。

「主体」というものは初めから「共同で」とはゆかないので、そこまで戻らないと「教会」なるものの退廃は防ぎとめられない、という決意として原点に戻るというその発想には共感いたします。しかし「キリスト者」という締めくくりでは「なにを持ってキリスト者とするか」が問えません。それは、それぞれの個人の信念を尊重せざるをえないからです。なぜなら「キリスト者」であることは個々の信念に関係することで、そこで共同性を確保しておくことは「信念の共同」とか「信念の相対的概念化」をしなければなりませんが、それはなかなか難しいことです。むしろ行動目標による共同性を確保することが精一杯だと思われます。「キリスト者」を外し「市民・住民・人民」さらには「人・人間・人類」にまで広げて、共通の意識の基盤とすることも可能ですが、その場合も、行動目標による枠組みを作ることが精一杯であろうと思われます。

 その場合の行動目標はもっとも深い意味で人間の共同性を表現した「愛」を念頭においたとしても、なおこの言葉が抽象化を起こしやすく、茫漠として現実には作用しにくい(むしろ逆作用する)概念でありますから、歯止めを掛けておく必要があります。その上で人間の共同性を表現すれば、貧しい者・被抑圧・被差別者の解放を射程に入れて考えるよりほかありせん。そのような意味で、宣教の主体は、神学的意味における制度的「教会」ではなく、また「個人・人間」と表現しきってしまう訳にもいかず、歴史の中の貧しい人々に開かれた「イエスを継承する人々」という意味での「教会」と把握しておきたいと思います。

 現実には私(達)は「日本基督教団」に運命的・歴史的に関わりを持ってきてしまっていますから、具体的には「日本基督教団」の「教会」の共同性に関わり続け、身を置き続けて、そこに「宣教」の主体を創造し、希求(祈り求め)し、協労していく以外にないと信じています。

3.「言葉」と「主体」との関係

 私は、いま日本基督教団 神奈川教区に日本基督教団隠退教師として教職籍を置いています。また、私の信仰のルーツが教団を構成する伝統的「教派」の中で「会衆派」であることから、各個教会に信徒としての「信徒籍」を神奈川教区のK教会に置いています。その意味で、教会の宣教活動の主体を神奈川教区を中心に思考しています。

 3月21日「教区平和フェスタ」という集会で、開会礼拝の「メッセージ」を依頼されました。神奈川教区は教区の宣教活動を担うのに幾つかのセクションを設けています。その中でも特に活発なのは「社会委員会」です。ここには6つの小委員会(基地自衛隊問題小委員会、社会福祉小委員会、部落差別問題小委員会、核問題小委員会、ヤスクニ・天皇制問題小委員会、多民族共生をめざす小委員会)があります。それぞれ固有な課題に取り組んでいます。

 その他、教区機関ではありませんが「寿地区活動委員会」があり「寿地区センター」を中心にバザー、炊き出しなどを運営しています。

「うねりの会」は沖縄「辺野古」の基地移設阻止支援に9名の「戦う」女性たちが立ち上がっています。「沖縄を学ぶ会」はもう13年も「合同とらえなおし」に呼応して各個教会の枠を超えて有志が集会を続けています。

「フェスタ」は食堂・展示・販売・ロールプレイ・音楽舞台・バザーなどの多彩な集まりでした。このような集会の発想は、従来の「講演会」「協議会」「デモ」といったものより人の交流を幅広く作り出します。また主催者層がひろがります。そんな中で「メッセージ」というので、最後の最後まで「言葉の獲得」に苦労しました。

 言葉は行動情報(人格言語・促し・要請・命令)、認識情報(叙述・説明言語)、美的情報(イメージ言語、比喩、暗喩、譬え)に分かれます。いずれにせよ、言葉の主体・語り手によって言葉の重みが違ってきます。

 言葉と主体が余り乖離すると言葉は軽くなります。主体が掛かっていると言葉はその重みで自ずから内容が伝わります。宣教(宣べ伝える)の中心部分は言葉による伝達です。社会部の働きでも、どれ程、その課題領域で苦しむ人と共に苦しみ喜び、共存しているかが、言葉の重みになります。

 しかし、ともすると課題がお題目になり、イデオロギー化し、観念化・抽象化しがちです。これは言葉が持っている宿命のようなものです。ここのところをどのように破り克服していくかが、言葉による宣教と主体の問題です。言葉が主体とあまり乖離するのはよくありません。かといって言行一致ということも厳密には難しいことです。少しでも言行一致の線上にとどまり続ける事が大事です。

「メッセージ」にはアモス書7章を取り上げました。ここはアモス書の1章から6章という、明快な部分ではありません。
 1−6章は、明確に、腐敗しきったヤラベヤム2世とそれをと取り巻く貴族・上層階級・支配層の人たちに向けられた、鋭い批判と神の裁きの言葉です。例えば

「彼ら(支配者)が正しい者を金で 貧しい者を靴一足の値で売った」(アモス 2:6、新共同訳)

 のように明確です。7章は、言葉の力の獲得のために、アモスが悩み、呻吟している箇所です。

 アモスは最底辺の被抑圧者ではありません。「私は家畜を飼い、いちじく桑を栽培する者だ」(アモス 7:14 新共同訳)といっています。自営牧畜業者・自営農民です。

 アモス書の社会状況をともすると「上層と下層、富める階層と極貧層、専制君主と被抑圧民」と二極化で考えがちですが、聖書学者はそうは見ていません、堅固たる中間層がいて、アモスのように、時には、農業現場から飛び出て、言葉を語って不正の現実に立ち向かった者がいたのです。

 職業的預言者は言葉と主体の乖離に気が付いていないのです。しかしアモスはその乖離が常に厳しい裁きに晒されていることを自覚していました。

 自営農民の生活基盤は7章(1節)に出てくる「二番草」です。一番草は王の軍隊の飼料に徴用されます。二番草が、中間層の生活基盤です。

 7章の「幻」は、その二番草が蝗の大群に襲われるのです。その時、アモスは生活基盤の安泰の上で語る言葉の空洞化を自覚させられます。「言葉」を単なる理念として語ることができる主体のくずおれを痛切に予感します。

「ヤコブは小さいものです。どうして立つことができましょう」と祈ります。

「ヤコブはどうして立つことができましょう 彼は小さいものです」(アモス 7:2 新共同訳)

 ここで「ヤコブ」といわれています。「イスラエル」という強さの自覚ではなくて、同じ人格の弱さの自覚としての「ヤコブ」なのです。

 社会にあって教会からの言葉を発する教会関係者は、言葉の主体としては「小さい者」の自覚を一層持ってゆきたいます。最近、神奈川教区の社会委員会について、ほかの教区の方から一つの見方を聞きました。

 社会に関心のある者をみんな社会委員会に閉じ込めておけば安全だ。教区・教会全般に力を持ってほしくない。教会でも、あの人には「社会」をやってもらう。いや日本の社会が、困惑しない程度には、社会のことを考える人は必要だ。しかし、根底からの問題提起をするものは厳しく取り締まる。

 これが今の日本・世界の現実です。

 このような時代にあって、言葉と主体の乖離の自覚しつつ、なお「赦されて立つ」教会人であることが「教会が宣教の主体である」ことの意味ではないか、とのメッセージを語りました。

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