一粒の麦(2005 礼拝説教・戸塚教会)

2005.3.20、戸塚教会 日曜礼拝 説教要旨

(日本基督教団教師、71歳)

ヨハネ福音書 12章20節−26節

 幼稚園の子供たちから教えられたことの一つに「言葉」の性格というものがあった。

 第一は「人格言語」。母親が「気をつけてね」というと言葉は力となって背中から子どもを押し出していく。第二は「説明言語」。物事の理解を説明で広げる。第三は「イメージ言語」。

 秋、門で「これ綺麗でしょう。おみやげ」と女の子に手渡された一枚の葉っぱは、子どもの心、母との関係の豊かさを私に想像させて、限りないイメージを呼び起こした。

 そういえば聖書は「空の鳥・野の花を見よ」というイエスの言葉で「神の国」のイメージを呼び覚ます。特にヨハネ福音書は、イメージ語句、イメージ説話を沢山用いる。「私は命のパンである」「私はよい羊飼い」「私はまことの葡萄の木」「神の小羊」「命の水」「私は道」「風は思いのままに吹く」など。これは説明ではない。

「メタファー(隠喩)」である。プロテスタントは、言葉の宗教だといわれる。しかし、それが福音を語るのに「説明言語」(信条、信仰告白など)に偏り過ぎてはいないだろうか、聖書そのものは、幅の広い「言語様式」を宿している。

 今日の箇所の「麦」も当然そのような含みを持つ。12章はイエスの死(栄光)を語る重いテキスト。死ぬことなしでは命(救い)はもたらされない。「自分の命(プシュケー)を憎む(ミセオー、共観福音書では「失う」)人は、それを保って永遠の命(ゾーエー)にいたる」と語られる。これは「説明言語」。

 それに続けて、26節で「私に仕えようとするものは、私に従え」と「人格言語」で、決断を迫る。そこに「麦」が、象徴として語られる。

 麦はこのテキストが言っている「死ぬ事」の強調として出てくる。「麦が地に落ちても死ななければ」と「死」が強調される。私達の日常に則していえば、自己完結を放棄して相手と共に生きる生き方であろう。

 教師が、医者が、牧師が、自己完結的に自分を主張するのではなく、生徒や患者や信徒の立場になって(つまり己に死んで)はじめて生きることを「一粒の麦の死」は象徴している。これは「説明言語」では「十字架の死」である。死ななければ、命には開かれない。しかし、「麦」は死のイメージだけを現さない。「麦」そのものが実に豊かなイメージを宿している。種麦の膨らみ、芽、緑、冬の麦踏みの根、麦秋、粉の膨らみ、柔らかさ。ヨハネの「麦」は死と同時に命や復活を宿している。だからこのテキストは厳しい死を語りつつ、暗く重い閉塞に向わしめるのではなく、命や解放を同時に暗示している。

 今日「麦」で、どんなイメージを拡げることができるだろうか。それはただちに私たちを食料の問題へと想像力を促し「南北問題」へと導く。少し乱暴な言い方をすれば、南の貧しさの上に、世界の経済を成り立たせているのが、力のアメリカが支配するグローバリゼーションである。でも南の貧しさのなかでも子どもの笑顔は消えないのは驚くべきことである。もう一方で「麦」が、イエスその人を象徴していると思えてならない。麦のように生きる、それはイエスのように生きることであり、イエスの従って生きることである。どれだけ多くの人とこのような、「象徴言語」「イメージ言語」を共有できるか。それを広げるのが「神の国」の宣教であろう。

 実は今日は3月20日。イラク開戦から2年目の日。昨年は土曜だったので、イラク戦争反対、自衛隊撤兵のデモに出かけた。世界の各都市で”Only The People Can Stop The War”(民衆だけが、戦争をとめることができる)というアメリカの平和団体のスローガンが叫ばれた。励まされる言葉だった。ピープルは幻の象徴言語。象徴性があるゆえに力を持っている。ピープル(民衆)という言葉でどれ程の人の悲惨な、不条理の死を想像するだろうか。同時にピープルという言葉で、どれ程多くの人が繋がれ活かされ歴史を前進させ、人間性を取り戻させたか。私達はイメージ言語を大切にして生きたい。

 祈ります。

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