深き淵の底から、主よ、あなたを呼びます(2)

2005年2月27日 小平学園教会礼拝説教
2005年版『地の基震い動く時』所収

前半を読む


この詩編は4連の詩が繋がってできています。1-2, 3-4, 5-6, 7-8節です。仮に①〜④までの順序をつけてみます。

① 1-2節「深い淵の底から、主よ、あなたを呼びます。主よ、この声を聞き取ってください。嘆き祈る私の声に耳を傾けてください」は「嘆願・切望」です。「呼ばわる」がキーワードです。

② 3-4節「主よ、あなたが罪をすべて心に留められるなら、主よ、誰が耐えましょう。しかし、赦しはあなたの元にあり、人はあなたを畏れ敬うのです」は「認識・思想」です。「罪」がキーワードです。

③ 5-6節「私は主に望みをおき、私の魂は望みをおき、御言葉を待ち望みます。私の魂は主を待ち望みます。見張りが朝を待つにもまして、見張りが朝を待つにもまして」は「生き方・実践」です。キーワード「待つ」。

④ 7-8節「イスラエルよ、主を待ち望め。慈しみは主のもとに、豊かな贖いも主のもとに。主はイスラエルをすべての罪から贖ってくださる」は「告白・讃美」です。キーワード「慈しみ」。

 私たちの信仰生活とは、この4つのキーワードのどこかに身を置いていることです。そして、それは、どれか一つだけが大事なのではなくて、それらが重なり合っているということです。また、動いているということです。それを私は重層性と言ってみました。

 その後、私はこの詩編130編に何度か出会いました。


深い淵に立たされて

 一つは、日本が行った戦争です。日本の市民も兵隊として戦争に動員され、アジアの各地でたくさん死にました。またアジアの人をたくさん殺しました。日本の市民も、アメリカの爆撃でたくさん死にました。およその数ですが、広島では20万人、長崎では7万人、沖縄では十数万人、東京の大空襲では10万人という単位で伝えられている人たちです。そして、当時の「国民」は戦争協力をしました。もちろん反対して抵抗した少数の人はいます。また国家の強制があったとはいえ、本来は平和を求めるキリスト教も戦争に協力しました。そのことを、後から反省し、日本基督教団では「戦争協力の過ち」を懺悔、すなわち悔い改めをいたしました。「第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白」いわゆる「戦争責任告白」です。

 実は1966年、教団の若手教師が全国から呼び集められた第17回夏期教師講習会の折り、私も参加していました。若手だった私や大塩清之助さんが、鈴木正久校長に教団として「戦争責任」を明確にするよう求め、迫りました。それが事のきっかけになりました。その時、私たちは中国・韓国を含むアジアへの戦争責任を言いました。

 しかし、その日、食事の席で、沖縄から来ていた山里勝一さんが「アジアへの罪責は分かるが、足下の沖縄のことはどうなるのですか」と言いました。その発言が「日本基督教団と沖縄キリスト教団の合同」に発展するわけですが、実は、その時の山里さんの言葉の重みが分からなかったのです。それは「沖縄を差別し、戦禍に晒し、アメリカに渡し、本土の犠牲にした、その加害責任はどうなるのか」という射程を持っていたにも関わらず、それが理解できなかったのです。沖縄のことが情報としても教育としても、全くと言っていいくらい知らされていなかったことにもよりました。

 だからと言って、沖縄との関係を差別したままにしておいて良い、というわけではありません。私は「日本基督教団と沖縄キリスト教団との合同のとらえなおし」が、その根っこで「罪責の問題」だということに気づかなかったのです。その時、詩編130編を思い起こして「深い淵」に立たされました。


大震災に遭う

 さらに、神戸で阪神淡路大震災に出会った時です。地震で亡くなられた方が6433人おられます。そのうち18歳までの子どもは514人です。この方たちの死は、災害の死です。それなのに、残った者はなにがしか死んだ者に対して罪責感や懺悔を心に抱いている人たちがたくさんいます。

 地震から10年経って、ようやく、あの日のことを語られた文章を最近読みました。この方は、西宮に住んでおられました。ご主人が東京への転勤を望んでいたのですが、奥さんの実家が西宮で、しぶしぶそれに合わせて大阪転勤にしてもらった方です。一家5人が家の下敷きになりました。


どれほどの時間が経ったか分からない。気がつくと、私は3歳の三男・邦幸の上に覆いかぶさるようにしていた。動こうにも体が全く動かない、ただ苦しい。地震が起きて、二階が崩れて、その下敷きになっているのだということを理解するのに、時間がかかった…家族はお互いに呼び合った。…5歳の次男・弘之の返事はなかった。8歳の長男・孝行は「ぼく死ぬの?」と聞いた。「大丈夫だよ」と答えたが、生きてここから出られるとはとても思えない。…動けないままの中で、夫は「大阪なんかへ来るから、こんなことになるんや」と私を責めた。…夜が明けるのがわかった。…ただ自分はもうすぐ死ぬ。こんな苦しい死に方をしなければならないほど、悪いことをしたのだろうか。…生還したら、夫はおそらく私を許すまい。誰よりも子どもを愛していた夫のことだ。離婚だろうなと思ったりもした。子どもの命を奪った地震に巻き込まれた原因を作ったのは私だから…。


 そのうちに、救援が来て、助け出されます。彼女はそれから半年、骨盤骨折で入院します。彼女が助け出されるとき、夫は「ありがとうございます」と礼を苦しい息の中から近所の人に言ってくれます。しかしそれが、夫の最後の言葉になりました。夫の死、3歳の三男、5歳の次男の死を、彼女は翌日知ります。文章は続きます。


あの日から10年が経とうとしている。長男はもうすぐ大学生になる。震災遺児になった長男は…あしなが育英会とずっとお付き合いをして、他の震災遺児の仲間と今も楽しくやっているようだ。テロや戦争で遺児になったアメリカやイラクの子供達とも出会った。地雷で足を失ったアフガニスタンの子どもとも出会った。地雷で足を失ったアフガニスタンの子どもとも出会った。…震災がきっかけで色々な人にも出会えた。家も建て直した。ただ、…失った命とゆがんだ体は決して戻らない。…そして明日から11年目が始まろうとしている。


 そして、彼女はこの文章を、インドの詩人タゴールの「幼子の歌」で結んでいます。

 「坊やはいなくなったわけではありません。私の瞳の中に、腕の中に、胸の中にいます」(「津門川通信」100号「それぞれの1月17日」佐野律子より)

 この文章を読みながら、この方も、失った家族への罪責を心の片隅に持ちながら生き続け、なお、「神の慈しみと赦しの中を」歩んでこられた方であることを感じました。
 詩編の詩の持つ、4つの側面のどこかに身を置いて、遍歴を繰り返し、生きていきたいと願います。深い淵から「呼ばわり」、神が「罪」を罪とされるなら立ち得ないことを認識し、朝を「待ち」望み、「慈しみ」は主のもとに、と讃美しつつ生きるということです。

 祈ります。

 神さま、今日は、小平学園教会の兄弟姉妹とあなたを讃美できて感謝いたします。私たちは、歴史の大きな出来事に出会うたびに、いつも深い淵に立っています。恣意的な支配、経済、軍事力の圧倒的な一極化による世界の暗さと悪、右傾化する日本の危機的な状況、民衆の無関心、貧富の格差、それはある面では私たちが負い切れない出来事です。だが、私たちが負い切れなくとも、重い負担を負っていることも事実です。あなたは、イエスの姿で世の罪に関わり、負われ、虐げられた者、貧しい者の傍らに居続けてくださいます。深い淵にありながらも、その後に従う者であることができるように導いてください。群れを牧する牧者、宗像牧師の上に祝福をお与えください。主イエスのみ名によって祈ります。アーメン

error: Content is protected !!