キリスト者と戦争責任(1967 中國新聞・岩国)

1967(昭和42)年5月28日(日)中國新聞

岩国教会牧師3年目、同志社を卒業して牧会10年、33歳
✳️ 判読できなかった文字ですが、完全なオリジナル版に修正できました。

ああ主よ、われ深き淵より
汝(なれ)を呼べり
(詩編130編)

(文語訳聖書 詩篇 第130篇1節)
あゝエホバよ われふかき淵より汝をよべり

(1955年口語訳 詩篇 第130篇1節)
主よ、わたしは深い淵からあなたに呼ばわる。

 この詩の持っているうずきにも似た「深きふち」は、そのまま日本のキリスト者のこころを吐露している。

 第二次大戦下、日本帝国主義の侵略戦争の誤りを見ぬけないまま、戦争にたいする抵抗をもなし得ず、少数の非転向者と、弾圧を受けた人たちを別とすれば、大勢において、日本のキリスト教が、戦争協力体制に組み入れられたという事実がうずくのである。

 日本キリスト教団という団体の成立(昭和16年)すら、その外的要因を考えれば、国家が既成宗教を戦争協力に導くために、宗教団体法によって成立せしめたものであるし、当時の幹部の戦争協力への指令文書は、国家原理にたいする信仰者の主体性を主張する教会本来の立ち場からすれば、目をおおう惨状である、と言わねばなるまい。

 朝鮮戦争が始まり、国是としての憲法体制が揺れ始めたとき、そのうずきと悔いは、誤ちを繰り返してはならないという声となり「キリスト者平和の会」を中心とする平和運動となった。その後、安保改定反対運動、ベトナムに平和を求めるキリスト者緊急会議、護憲運動、紀元節復活反対運動が展開された。

 これらの諸活動に参加したキリスト者個人のこころには、その発想の違いはあっても、戦争における挫折を内に秘めつつ、新しく当面する課題に取り組むという過程があったに違いない。

 たとえば、『あるキリスト者の戦争体験』(安藤肇、日本YMCA同盟出版部 1963)では、この過程が「信仰の挫折」と「市民的自由の確立のための戦い」として詳細に記されている。

 そして、その個人的体験が、日本キリスト教団という組織レベルにおいて結実し、新たな局面を与えたのが、このほど公表された「第二次大戦下における日本キリスト教団の責任についての告白(今年3月26日)である。

 この告白の中心は、教団本来がその使命として持っている「地の塩」としての働きを果たし得なかったことにたいする、信仰的罪の懺悔(ざんげ)にある。

 しかし、それは同時に現時点での使命への決意と重なっている。とくに、その罪の自覚と使命は日本国民の進路にたいしてだけではなく、アジア諸国の隣人たちにも向けられている。

 実際、この告白と表裏をなして沖縄キリスト教団との合同決意表明が出されているが、これはいま国民が負わなければならない沖縄問題への、教会なりの取り組みである。

 キリスト教信仰は個人の安心立命ではなく、他者のために何をなし得るかという決断、すなわちその意味における主体性確立の問題であるが、そのことを明らかにしている意味で、この告白の意義は大きい。

 丸山真男氏が、日本の思想について、その座標軸の欠如を指摘してから久しいが、たとえば、戦後の民主化や平和の諸運動の原点であるべき憲法体制にしても、それが実践的に戦いとられて、生活に受肉し、その上で思想にまで昇華されているかどうかは、きわめて疑わしい。

 実践の過程において体験する、さまざまな挫折が深められ超克されて、原点の動的な把握にまで立ち帰ってそこで展開される思想となってこそ、はじめて座標軸が形成されてゆくものであると思う。

 その意味においては、このたびの「戦争責任の告白」が、挫折を単なる悔いや自己反省において超克するのではなく、信仰という営みの本来にまで立ち帰って、この挫折せる者にもなお使命が、という「愛とゆるし」を信ずるところから出発していることは、そこに芽生える思想の形成に、座標の設定をおのずからせしめるものであろうと期待し得る。

 この告白と関連して、福音書の、鶏が鳴く前にイエスを知らないというペテロの話が思い出されてならない。

 この告白は、日本キリスト教団第14回総会という正式機関の決定を経て公表された。しかし、告白文そのものは、議長・鈴木正久名でなされている。告白文の「われわれ」という一人称複数に自ら参加するか否かは、個人の信仰と決断に任されている。それはまた、軍国主義への傾斜をたどり、ベトナム戦争への協力体制下にある日本の現状で、人間の尊厳を守る使命をどれだけ遂行するかどうかに関わっていることでもある。

 問題は、各個教会レベルで、これがどれほど教会の体質になるか否かである。

 これは単に組織における伝達の問題ではなくて、ほんとうの討議という生活の場を経てこの問題が共同体の各個の構成レベルに受肉するか否かという、民主主義の本質に関わる問題である。

 教会はその課題を果たすことによってこそ「地の塩」となるのである。現場の牧師である私は、この討論を起こす、呼びかけと実践を、この告白に関して、行いたいと思っている。

(日本キリスト教団・岩国教会牧師)

1967

▶️ 書籍『兵士である前に人間であれ-反基地・戦争責任・教会-』
岩井健作 (2014 ラキネット出版)

▶️「反戦貫き四半世紀」(2002 神戸新聞・記事)