1977年のクリスマス説教(岩国教会)

1977年12月25日、1978年1月1日 岩国教会週報より

降誕祭主日礼拝出席84名
洗礼式(受洗者 岩井容子、授洗牧師 岩井健作)、聖餐式、午餐会62名
25日CS101名、25日18時45分から燭火礼拝
前週礼拝出席35名、夕拝5名、18日該当募金23名、中谷裁判公判3名、23日街頭募金13名、23日キャロリング20名

降誕祭主日礼拝説教題「神われらと共にいます」マタイ 1:18-25

”その名はインマヌエルと呼ばれるであろう。これは「神われらと共にいます」という意味である。”(マタイ1:23)

「神われらと共にいます」。クリスマスのメッセージは私たちが心に思う想いよりもはるかに深く私たちを包んでいるのではないでしょうか。私たちは親子、夫婦、親友、仕事の同僚など「われら」というにふさわしい人を心に思い浮かべることはできます。そうしてそのことにしあわせを思います。

 しかし、一度孤独にめざめ、自立への旅立ちを歩み出してしまった者や他人の罪、自分の罪の深さに気づいてしまった者には、もうそう安易に「われら」とは言えません。聖書はそのことを充分承知の上でなお、「神われらと共に」といっています。それは21節後半で「彼は、おのれの民をそのもろもろの罪から救う者となるからである」という言葉と一緒に言われています。ここでは「われら」という言葉は人間を本当に孤独にしてしまう力、虚無の力、罪の力を越えてひびいてきます。それは、私たちの人間としての共同的あり方の偽り、貧しさ、破れといったものにはもう驚かない程に力強く、私たちをつつむメッセージとして響いてきます。私たちは自分が潔癖であろうとして、連帯的あり方をやめてしまいます。時をかけ、気持ちを抑えてまで、相手と付き合い、何かつながりを持とうとする温かさを失います。また逆に、異なった者から逃れて仲間うちに身を沈めて一時をしのぐ弱さを持っています。ヨセフも「正しい人」でマリヤとの婚約解消を計りました。しかし、神がヨセフとマリヤの結びつき共に生きる在り方を用い給うたことに深い示唆を与えられます。神が共にいます「われら」を憶えつつ、クリスマスのさんびかを心にとめたいと思います。

 とこしなえのみことば
 今ぞ人となりたもう
 待ち望みしその民よ
 おのがさちをいわわずや

(「先週の説教より」1978年1月1日 岩国教会週報掲載 岩井健作)



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