教会と聖霊《Ⅰコリント 12:1-11》(1989 説教要旨・ペンテコステ礼拝)

1989年5月14日、聖霊降臨日(ペンテコステ)、転入会式、聖餐式
(当日の神戸教会週報に掲載)

(牧会31年、神戸教会牧師12年、健作さん55歳)

コリント人への第一の手紙 12:1-11、説教題「教会と聖霊」岩井健作

 ”聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」と言うことができない”(コリント人への第一の手紙 12:3、口語訳)


 教会は神の啓示の出来事としての「イエス・キリストの現実」に従うことを根拠にして歴史的に形成されてきた。

 だから教会が拠り所としている「権威」は、いわば神律的権威である。

 「権威」を表すギリシア語の”エクスーシア”は、一方では「自由(Ⅰコリント 8:9)という意味も持っている。

 何ものにも束縛されないという意味である。

 神に従うゆえに、この世の「権威」には束縛されないという面の表明である。

 神に従うという面については、その具体的応答として、歴史的教会はさまざまな経緯を経て、(1)聖典としての聖書、(2)職制、(3)信条(使徒信条をはじめとする世界教会信条)を生み出し、その三つを、教会が生み出した諸権威としてきた。

 これら「応答としての諸権威」を絶対化する時、教会が形骸化する、という誤りも、長い歴史の中では繰り返してきた。

 だが、「応答としての諸権威=歴史的諸権威」をあまりにも軽んじた時に、教会は、熱狂主義的運動、神秘主義的集団、文化主義的啓蒙活動に陥らざるを得ないという経験も経てきた。

 聖書・職制・信条(信仰告白)という歴史的諸権威を、歴史的という相対性において捉えながら、なお、神の権威ならしめる、その都度の「神の働きかけ・神の力」として「聖霊」を信じるということが、これら両者の危険を、現実的にくぐり抜けさせてきた、教会の大切な信仰であった。

 「使徒信条」を見ると、「聖なる公同の教会を…信ず」の前に、「我は聖霊を信ず」の一句が入っている。


 聖書は歴史的文書であるにも関わらず、聖霊の働きにより、深い実存的認識として、神の権威をもって人に迫るとき、「神の言」となる。

 教会は、罪と弱さに満ちた人間の組織でありながら、聖霊の働きによって、赦しと選びと派遣の認識が与えられ、「キリストの体」と称される。

 破れの器が、聖霊を介して、新しい秩序を与えられる。

 イエスという方を介して、神に出会うという出来事は、聖霊を介して起こる。

 真の人にして真の神という教義(信条)は、論理として意味を持つのではなく、聖霊を介して、逆説としての力を持つ。

 聖霊を、個々人の内なる魂に働きかける神の霊ないしは神の力として理解するだけでは不十分である。

 聖霊が働くことで、歴史の中に、具体的形をとどめる共同体としての教会が、歴史に堕することなき共同体としての浮上を許されている。

 御霊の執りなしを信じる(ロマ 8:26)群れでありたい。

(1989年5月14日 説教要旨 岩井健作)


1989年 説教・週報・等々
(神戸教会11〜12年目)

error: Content is protected !!